『海のふた』 よしもとばなな

01/01/1970

よしもとばなななんていつ以来かな。
高校生の時か。大学生のときか。
胸をきりきりさせながら読んで、彼女の影響でスティーブン・キングも好きになったのにいつのまにかすっかりそこから抜け出てしまった。
あまりにも甘く、直截的でセンチメンタルにすぎる。だんだんそう感じるようになった。

明治神宮に見に行った版画の展示会でこの本をみつけた。
版画を見て私のこころはくにゃくにゃにやわらかく、きらきらしたものを求めていた。
なんでもしみ込んできそうなそのこころに海のふた、というタイトルがやけにしみた。
海のふた。

よしもとばななの文章は懐かしかった。
やっぱり甘くて直截的でセンチメンタルにすぎた。
でも夏が終わるのがなんとなく惜しくて、けれどまだ完全におわったわけじゃない。そんな時だから、ちょうどよかった。

ある田舎に住むほねぶとの女の子のところに訳ありの都会の女の子がやってきてひと夏を一緒にすごし、なんだかすごく深いところで仲良くなり…という、これまたよしもとばななぽい話。
でもそれでもよかった。
私はいつもこんな、夏の友達に憧れているから。
色濃くて過ぎていったそのあとにも風ににおいがかおる、そんな夏の性格が好きだから。

一緒にこの本を買った友達はフランスから1ヵ月だけ日本に帰ってきていた。
あの本読んだ?っていう話になったときに、もう泣いてしまって読めなかったよ、と言っていた。
そのことを読みながらずっと思い出していた。
彼女がどんな思いでフランスで暮らし、この夏に日本に帰ってきたか。
どんな描写もそのことにつながってしまって、私も胸がきりきりして涙がにじんで読めなくなった。


ずっと自分のことばかり考えている。
今私は自分の時間を誰にも、なににも分けてあげずに、ぎっちり自分だけに塗り潰してる。
愛情は、自分の時間をどれだけそのひとやものに費やせるかに比例する、ということばを聞いたときから、私はからだの周りをふさがれてしまったように感じた。
私はなににも自分を割いていない。
自分にしか興味がなく、なにも大事にできないのだ、と。
ときどきちゅんが肩に乗ってきてじっとみつめているとすごく悲しくなる。
私はこのこのこと大好きなんだけどな。でも私がこのこに触れている時間はこのこが待っている時間よりもすごく短い。
でも自分のことだけに時間を使うのって、実は全然満たされない。
ぎしぎしと積もるだけ。
もしかしたらそれだけでは満足していないことを、無視しているからかもしれない。


途中夜の海のシーンがあって、この夏に私が体験したことともうほんとうに似ていて、びっくりしてからだがフリーズしてしまった。
この夏にあのひかりを見なかったら私はこの部分になにも感じず、ただ絵本の挿し絵のようなイメージだけを浮かべて通り過ぎただろう。
でも、あの、命そのものみたいなひかり。
打ち寄せるどのひとつも見逃さずその高みにむかって踊るように泳ぎ、砕け散るとまた生まれる。
生まれた喜びは燃えて、ひかりそのものになって、また頂点をめざす。
それはただの月のひかりの反射などではなかった。
海の表面のほんのひとかわ下で終わりなくおきている、生き死にそのものだった。

あんな風景を当たり前にもっている人がいるのだ。
そう思うと、世界は広すぎて、私はそれを好きになるにはちいさすぎる、とまた思う。