『遠い朝の本たち』 須賀敦子

01/01/1970

たいせつなエッセンスがつまっていた。
星野道夫さんの本で知って読みたいと思っていたアン・モロウ・リンドバーグのことが再び出てきたし、テグジュペリの飛行機から見るひとのいとなみの話も。
ある断片がこころに残っているときに、そこにすっと繋がるなにかが訪れるようになった。
このことはもっと耳をすますことで頻繁に起こり、はっきりと澄んでくるんだろう。
もしかして、積む前にわかるようになるのかもしれないとも思う。

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たくさんの本を次々に読んでつぎつぎにためてゆくより、今は同じ時間でさらに噛むことを求めることのほうがたいせつな気がしている。
再び読んだものを掘り出し、横に広げてゆく作業。
なにもないところに新しく珍しい種を植えるのではなくて、ひとつの、もう知っている芽に取り組みかかわって、見守ること。

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そうして丁寧にかかわって信じたものだけを発したい。
揺らぐものとゆらがざるべきものをその都度わかつ。

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昔自分が書いたことばを読み返すと、今のわたしにとって当たり前になっている感覚がその時そのときに見いだされていることがわかる。
新鮮だった“その時”に立ちかえることも、ときには大事。

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さようなら、とこの国の人々が別れにさいして口にのぼせる言葉は、もともと「そうならねばならぬのなら」という意味だとそのとき私は教えられた。「そうならねばならぬのなら」。なんという美しいあきらめの表現だろう。西洋の伝統のなかでは、多かれ少なかれ、神が別れの周辺にいて人々をまもっている。英語のグッドバイは、神がなんじとともになれ、だろうし、フランス語のアデューの、神のみもとでの再会を期している。それなのに、この国の人々は、別れにのぞんで、そうならねばならぬのなら、とあきらめの言葉を口にするのだ。
~『遠い朝の本たち』須賀敦子(アン・モロー・リンドバーグのことば)