キャンドル、トンネル

12/25/2008


Noismを横浜のレンガ倉庫に見に行った時に通りかかったキャンドルカフェというイベント。

火はそれだけでこころを揺るがせる。
火を見るときいつも、炎とほのおじゃないところの境目を見つけようとする。
輪郭のいちばん外を。
そこにある温度の落差を見ようとする。
普通の空気がほのおに取り込まれるその瞬間を。

見てきた舞台について(これについてはまだうまく書けそうにないのでまたじっくりと)Mちゃんと話す。
やっぱり私が見たいのはそのひとなんだ、と思う。
そのひとがその舞台上で何をやっていて、何をみせたいか…ということじゃあない。
そのひとがどう在るか。どう在り続けてきたか。
見たいのは、というか見えてきてしまうのはつまりはそこなんだ。
演じていることがあってこそもちろんそこが浮き立ってくるから、やっぱり何をやるかということは大切なのだろうけれど。
スタイルを見せたり仕掛けにばかりこだわろうとしたりするものはもういいや。そういうのも素晴らしいかもしれないけれど、今はもっと芯をごりごりと押してにじみ出て、ぐつぐつと温めなおして、醸されたようなそのもの自身。もしくは、ふっと息を吐いて無防備になったときにいやおうなく漂ってしまう、なにか。が見たい。

技術と表現についてちょっとこの間書いたけれど、それはトンネルとそこを通る物質のようなものかなあって思うのです。
もし技術が磨かれていなかったら、無限にも思えるその「表現したいこと」はトンネルを通ったときにほんのちょびっとずつしか出すことができない。もし「表現したこと」が大雑把だったらその細い口をふさいでしまうかもしれない。
逆に技術のことばかりを考えたらそのトンネルを満たすものがなくてスカスカ。なにも通らないトンネルなんて必要ない。(あるかな?こんな言い切りは危険だよね。あるかもしれない。美しいトンネルもいいものかもしれないもの。)
けれどトンネルを押し広げてみることではじめて、そこを通るものの質がわかるのではないか。
お互いのことをバランスよく考えることで自分の技術のことも表現の質のことも、何が足りなくて何をつめていったらいいかが相乗効果のように分かってくるんだろうなあ、と。
だから技術と表現はお互いに切磋琢磨してぐいぐいとつみあがってゆくものであるので、やはりぎゅうぎゅうな頭な今は技術的に磨くべきときなのだろうと思うのです。この「なにかわからないけれど生み出したいもの」が実は今私が感じているよりは確固たるものじゃあないことに気づくのだろう。
それはそれで楽しみ。