ほんとうに話したいこと、ほんとうの動き

10/01/2009


きっと生半可なことでは見透かされるような気がするからかえって素直になるのだろう。
けれどそれだけ使うことばにも気持ちを配る。
未熟であることは伝わってしまっても仕方がない、けれど簡単に考えていると感じられてしまうのはいやだ。
今言いたいことに一番近く寄り添うことばをさがす。
ときに言いかえたり逡巡するようなことがあっても待ってくれる。察してくれる。
そんな安心感は余計なことばを生まない。

動きでもことばでも、出せば出すほど軽くなる。
余計なことしいなんだろう、生来。
そこに必要がないからうわっつらの、慣れた、練られていない目障りなものになる。
安易に動くべきじゃない。ことばを発するべきじゃない。

あ、これ、と思ったことがらがあったとしてそれを踊りにかえたいと思うとき、そのあいだにある変換の場所とかやりかたに迷いがある。
こんなことを表したいと思うことと、それをかたちとしてからだにのせることとの隔たりを埋める術をまだ持たない。
2回おなじこと書いちゃった。
もしかして私のこの翻訳機に欠陥があるんじゃなくて、不適切な翻訳機を用いようとしているんじゃないか…?不適切とは言わないまでもちょっと扱いに困るほど壮大かつ曖昧な機械を使おうとしていたんじゃないか?ということを今考えている。
もっと別の取り上げ方がある。
そして、それこそが私の翻訳の仕方だった、ということにならないだろうか。
なるような予感が、ちょっとしている。

文楽の話をした。
彼女はしばらく文楽の舞台につきそっていたことがあるということだった。
『Doll』の最初に出てきた文楽のほんの短いシーンを見て私が感じたことを話した。
人形の動きがとても生々しく感情を表していたのに後ろで操るおじさんはまるで無表情だったこと、なのに人形が愛人を見上げるというシーンの時におじさんは自分が操る人形の目を通してじゃなくて、なにか別の回路で、相手の人形を見た。
その時に、あ、なんかわからないけどこれだ!って思ったよという話。
どうしようもなく惹かれて、忘れがたい一瞬だったのだ、と。
古典芸能は基本的な動きを何度も繰り返す。
文楽もバレエもそれは同じこと。
愛人を見つめる人形の気持ちになって動かすんじゃなくて、愛人を見つめるひとはどんなからだで相手を見つめるのかを訓練する。
ひとは人形に入り込むんじゃなくて自分が操っている人形を後ろから観察し、分析してもいる。
皮膚の表面に感情を丸出しにして踊ると自分自身の内部のテンションだけがそこにあって何も見えない、ということのヒントがここにあるんじゃないだろうか。
客観性、客観視、ってよく言うけれど、私もよくそれが大事なんだよなあなんて書いたりしているけれど、それはほんとはどういうことなんですかと問われたらええと、と口ごもってしまう。
私にはやっぱりわかっていないのだ。
だから踊りがクサい。
余計なことで誤魔化そうとしちゃう。

ああ、いやだ。
どうにかして脱したい。