踊りと写真、補完、やつあたりしましたのはなし

11/01/2010


写真を撮ることで前よりもものを見るようになったしその見かたも変わった気がするけれど、ときどき、ほんとうに感じるべきその瞬間というものをおろそかにしていないだろうかと考えることがある。
撮ることとただ見ることとはどうしても同時にはおこなえないからどちらかを選ぶことになる。
その選択を、咄嗟のそのひとときで、自分の感覚がほしいと思うその通りにできているだろうか。
大量に仕上がってきたフィルムのデータを見ながらそんなことを思う。
自分で撮った写真なのにこうして後から見直すとその時には気づかなかった感触を体験することができる。
けれど、それはこの写真を撮らなかったとして得られる体験と同時には存在しないんだな。
ただ立ち尽くしてそれが過ぎるまでその場面に、空気に、からだをさらしている体験は、なかったんだな。
わたしはカメラを構えて、短いその瞬間のなかを長い時間に変えて、そこからのひと場面を留めることを選んだんだから。

踊ることと写真を撮ることは、わたしにとって補完の関係にあるようだ。
皮膚感覚とか時間の再生のようなことは案外近かったりするから、自分がじかに表現するものとカメラをはさむもの、生ものである踊りと過去である写真、とかいう単純な対比だけではなくて。
表現方法としては距離があるし、最初は私も単純に両極端だからやっていて楽しいのだと思っていた。
けれどそれは両極というよりも、同時に流れて存在している水面と水面下のようなものかもしれない。
どちらかがおいてゆかれることがない。
踊りは写真を連れてゆくし、逆も然り。
写真で得たひかりは踊りにも映る。
なんだか、右耳と左耳からちいさなものがたりを聞いているみたい。
まんべんなく、やかれているみたい。

踊ることで生きることが少しずつ分かってきた気がするのと同じように、写真も毎日をあたためてくれている気がする。


実はすごくめずらしく酔っ払って「どうせ踊りは仕事にならないって思ってるんだ!」みたいな面倒くさいほとんど八つ当たりを友人にして困らせちゃったんだけど(ごめんね)、わたしが求めていることはそんなことじゃないんだ。
ちゃんとここにいることを実感して、なにものかってことを知って、どうやって世界と繋がればいいかって考えたいだけ。
その先にはどうしてもひとがいて、わたしは私の好きで踊っているしそりゃあ踊って食べていけたらそんなに幸せなことはないけれど(それに芸術家だってちゃんと稼げる世の中になるべき!とは思っているし)、そんなことよりなによりその先にひとがいるっていうことがとにかく重要なんだと話していて気付いた。
その、ひと、になにをしてあげられるかとかそんなことは全然わからないんだけど、というかうまく短くまとめられないんだけど、ただその先にひとがいることがすごく大事で、ちゃんと目と鼻の先で何かしら勝負させてよ、って思う。
もしかしたらあたためることかもしれないしぐらつかせることかもしれないし、きゅうってしぼるようなことかもしれないし言葉もうしなわせるようなことかもしれないし、ちかちかまたたく感じのことかもしれない。
それだけのことをしなきゃいけないんだ。
生きてゆくうえで色んな感触を得るけれど、そんなにたくさん毎日わあって感動したり事件があったりしない。
舞台は人生の縮図みたいなものかもしれなくて、けれどその再現でもイミテーションでもないことを、ちゃんとリアルに存在させる必要がある。
つくりものとわかったうえで。
自分じゃない、別のからだの別の感覚にどうそれが見えるかを明確に意識して。
そんなたいそうなことをほんとうにできもしないのに、踊りは仕事にならないとか、たくさんのひとに見てもらいたいとか、そんなこと言っていたら恥ずかしいなあ。

舞台みてほしいなあと本当に思う。
舞台はいいよ。
いろんな感覚が変わると思う。
映画みたいに気楽に楽しんでほしい。
ダンス知らないからとか、わからないからとか、踊れないからとか、そんなこと全然構わない。
わたしたちはダンス評論家のために踊ってるわけじゃないから。
(と、ここまでの6行は、わたしたちが努力しなきゃいけないことでもある)

からだを持っているひとすべてに見てほしい。