舞踏のこと、『卵熱』

05/26/2011

先週知人の舞踏公演を見て自分のなかでまとまりのつかぬというか行き場のないぼんやりとした疑問のようなものが頭から拭えないでいた。
いちばんこころを悩ませたのが、あのような作品が舞台という架空をお約束された場所で成立するものであるのかというすごくおおもとにある疑問で、あんなふうに人間の根源のようなものを生身を剥き出して演じようとしているそのからだが、ふと我にかえるとやっぱりこんなに端正に作られた舞台装置のなかにいる、やっぱりこれはただ計算されて演じられているのだということがしょっちゅう私を現実に引き戻した。
そんなこともちろん当たり前で舞台を観るときにそういう行き来がなく観られることは少ないのだけれど、その差が大きいであろうというこの「だろう」ということだけが終始わたしを支配して、結果揺さぶられることに飽き、さいごにはただ現実にとどまって観てしまったのかもしれない。
でもこの感覚は、はたしてわたしは、とすぐに置き換えられることでもあるので足元がすっと冷える体験でもあった。
舞台という虚構の箱のなかで観客がかんじる感覚の微細を、どれだけ掬い取ってきただろうか、と思うから。
そのフィルターなくして作品をつくることはできないけれど、でもそのフィルターの網目の細かさは、ちゃんと計算されたものだっただろうか、と。


そんなふうにもやもやとしていたとき偶然、友人が山海塾のDVDを見せてくれた。
『卵熱』。
DVDは大谷の石切り場での公演を記録したものだった。
これは2009年に池袋芸術劇場で再演していた時にとてもこころ惹かれて観にゆこうと思っていた演目(確か体調が悪くて観にいけなかったんだけど)。

薄く水を張った舞台中央、深く切り込まれた洞窟の壁、時間のように降り積もる砂と、音のひろがりを感じさせる落ちる水。
踊りの舞台でこういう感触を受けたのは初めてだったかもしれない。
なんだろこれ、と最初は話をしながら見ていたんだけどそのうちことばも出なくなった。
ぜんぜんひとつのところにこころが収まらなくていろんな温度や色や時間もさまざまなことが同時に湧き出して、かき混ぜられて、でも上澄みのように謐かで、
…ただ感じている全身がすべてになった。
性を越えたというか、性が定まる前というか、生々しいのに神々しくて、粘りがありながらどこまでも清らかででもとどまっている。光と闇が同時にあって、なんかこの赤い指は虫の触覚みたいだし生殖器みたいだし、でも告げるしるしをつけるなにかみたいだし。生まれることも死ぬことも同時にそこにあって、無音の音みたいなことがあって・・・もうとても書ききれないけど。
天児さんの動きに目を見張ったり、卵にはこういう意味を込めているのかも、みたいなそういう直接の感心みたいなことを踏み台にして自分がもう全然別の次元のどっかにどーんと飛ばされてしまうようだった。
あ、天児さんの動きはほんとうにすごくてこれがもしかして韻か、みたいなことを考えてそれも大きく印象に残っているけれど。
ビデオなのになんてすごいんだろ。
とにかくあれを私はこの目で観たかったし同じ空間で体験したかった。
演者として体験している友人に話をききたい、と今すごく思う。

卵熱は山海塾のなかでもちょっと感触の違う演目みたいだけれど、次山海塾が日本にきたらきっとみたい。


なので、やっぱり超えるしかないんだなー、と思う。
タルコフスキーだって今回の卵熱だって、思い返せば素晴らしかったと思うものをわたしはなにも頭での理解なんかその時には追いつかなくて、全身の細かいゼンモウみたいなものでただ受けてそれぜんぶに初めてなかんじで打ちのめされて最後に、観たこともないようなまぶしいひかりのなかに連れて行ってくれる、そういうものをわたしは芸術みたいなものの至高として、求めているんだなと思う。
いろんな芸術みたいなものがあるのでそれはそれでいいんだけれど、わたしにとっては、ということ。