舞台にかえして、まなざしによる分類

12/11/2011


今日はJCDNの水野さんからお誘いを頂いて池上の實相寺に公演を観に行った。

夏にお寺で踊った時のことを思い出した。
果たしてあれは、ちゃんと成立していたんだろうか。
ちゃんとやっぱり客観視できないまま刹那的に過ごした感が強くて、ふと思い起こしてひやりとする。


どうして好きな作品や、好きなダンサーが出ている作品を観に行く時に緊張するか、少し分かった気がする。
自分も一緒にそこにあがる感覚があるからなのかもしれないし、その作品の場にいられなかったのだという切なさからなのかもしれないし、その作品のためにどんなに苦しんだり孤独だったりしたかということを想像する、その時間を埋め合わせるための反応なのかもしれない。
友人から受けとったメールに、そんなことを思った。

そういう意味ではなにも心配することはない。
全部まるごとそこにあった。
その置き方のことは脇に追いやってしまえるほどにさぐらせてくれた気がして、そのことがずっとわたしを揺らし続けている。

そして、そんなふうに揺さぶられたり迷ったり、しないはずがないのだと思う。

そんなことが全部、そこにあった気がする。


+


まなざしにはいくつかの種類があって、たとえばわたしにとって栗色のまなざし、という感触の瞳を持つひとにはわたしの方から懐くので深く可愛がられる。
小さな頃からそのことを不思議に感じていた。
どうしてひとはまなざしの感じで分類できるのだろう、と。

まだわからないけれど今のところ少しだけ分かった気がしているのは、そのひとがどこで見ているか、ということなんじゃないかということ。

どこで見ているかによって、わたしがどこまで入り込めるかが決まる。
その深度のことなのではないかという気がする。


今日はうつくしいまなざしのことを何度も思い返した。