いつわりなく動く

04/06/2012

嘘いつわりなく動くとはどういうことか、をよく考える。
たとえば記憶をたどる、景色を取り込む、ことばをなぞる。それらをからだの動きにするとはいったいどういうことなんだろう。
コップを取るという目的のためにはたとえば手をさしのべて指を開いて挟む、というような動作がある。ではあの崖の上から見た波の風景を動く、とは?
風景をそのまま動くのはやっぱり今のわたしには少しむつかしいな、だからその時に降りてきた感情のようなものとか、からだの反応を動きにしてみる。
それはほんとうに「いつわりのない」とわたしが思える動きになるんだろうか。わたしがしたいのはパントマイムのようなこととも違う。その動きを見て「崖からの波だ」とはわからなくてもいい、けれどわたしの中ではそれはちゃんと手を繋いだものとしておきたい。
ひとつ動きができたとする。それをどう継続、または次のものに接続させていけばいいか、その一瞬いっしゅんに与える動機は何が生むんだろう。その景色の続きの物語だろうか、それとも動きがくれたからだの重みや、外界に対する反応?それとも、限りなく分解してゆけばいいのか。時間も感覚の細かさも。
いや、それはなんだって構わない。嘘でなければ。
だけどその嘘とはなんだろう、動き続けるために与えるきっかけは自然とそこにあるわけじゃない、そうしたら嘘になるのかな。嘘だとしても、その与えられたものによって、それを持っていたことを知るような連続がそこにあるのだけれど。
嘘によってつくられてそこに存在するようになったものごとは、最後まで嘘であるのか。