雲が多い夜空が広くみえるのは

09/08/2012

何が失われていたかを今日知った。
彼女のからだには喜びが満ちていて、生きるということの愛情やさよならをしてきたものごとのことが全部あった。
見つけた、とほっとしたのか、失っていた時間へのかなしみか、ただ彼女に満たされたのか、そのすべてだな、すべてが底から押し寄せて泣き笑いになった。

こころの所在なさはからだを不確かにする。誰もがそうではないだかもしれないけれど。
どうしてそういう性質を築いてきたのかわからないけれど、生きて、当たっていることの全てはただ漠としてそこにあるようにしか捉えられない。その瞬間のことだって手に余る。多すぎる。鮮やかすぎる。はやすぎる。
ほとんどのことには根拠を持てない。周りのみんなはすぐにぱっとことばが出てきて、すぐに選び取ることができて、なんて明確なんだろう。なぜわたしはいくつになっても世界がただただ不思議なままで、いっこうになにも征服できないんだろう。
これはある種の欠陥なのかもしれないとずっと考えてきたし、実際に困ることもいっぱいあるから欠落ではあるんだろう。
けれど少し前まで、わたしのからだにはよろこびや好奇が満ちていた。なにを良しとするか、なにを美しいと思うか、ちゃんと知っていた。
わからないと言うこと、説明できないと感じることは知らないということとは違う。
それを腹の底ではつかんでいたから、大きく欠けた自分でも、怖いものなしに太くいられたのだろう。

幸か不幸か、たぶん踊っているあいだは幸なんだろうけれど、どうやらやはりわたしが直截的に関わることができるのは、瞬間と対峙している自分ばかりなのだ。
そういう性質を寂しいと考えたこともあったけれど、欠落はもしかしたら自分だけが埋めなくてもいいと気づいた。わたしが世界中を見なくても、世界中のひとと友達にならなくても、いいじゃないかと。
踏み出さないくせに欲張りだったし、欲張りをかたちにしてみたら何かがゆがんだ。
そうして、自分が知らずに信じて握っていたものをメガネめがね、みたいな感じで失くして呆然としてた。
まだ、ちゃんとただいま、おかえり、っては明確にならない。ノックもまだだな。
でも、居場所から便りがきた。
だから、明日は今日とは違う踊りができる。たぶん。