つかまえられない、つかまえつづける

12/26/2012

夏の、Mさんの舞台の楽屋にて。神戸のダンスボックス。
1回めの公演が終わって、別のパートの終了を待っているとき。
真剣な顔をしていたのは憶えているけれどこんな思いつめたような顔をしていたことには気づかなかった。

ながくクリエイションを共にさせてもらったことがあって、いつかまたさんMさんの作品や世界に触れたいと思っていた。(今ももちろん思っている)
MさんはWSでの私を見て、すべてを任せてくれた。
ポルトガルのコンセルバトワールで上演した作品で世界観もできていたし私以外の皆さんには振付があって、その中で自分がどんな役割を果たしてどんな動きをしてどんな時間を、空間を作ればいいのか悩んだ。
Mさんが渡してくれたこの世界に対することばは、わたしがずっとあたためてきたことに被さり、色合いを深めるものだった。
Mさんが以前からよく作品のインスピレーションを受けると言っていたリルケの詩を、原文のドイツ語で読むことにした。

わたしがちょっとでも焦点をずらしたら逃してしまうところに流れる感覚を、細いほそい針にひっかけ、そっとたぐり寄せた。
やっとのことで味わったものを、自分自身の深く柔らかい部分でかたちにならなかったことたちを夢から小石をひろって戻ってくるような作業をして、それだけでも困難なのに、からだで具体化するなんて可能なのか疑った。
なんでからだはこんなにしっかりと実在しちゃうんだろう?
からだがあるから踊れるのにからだが邪魔だ、相反する。からだから発動する、からだだからこそ受け取って知らぬところで噛んでいることをこのうえなく切実に手のうちにしておきたい、それなのになんてからだは。

作品の要であるわたしがすべて即興なので、つまりはその世界がどんな味わいになるのかへの責任は大きかった。
リハーサルだからって毎回同じものを見せたくなくて、でもその都度、踊り終わって舞台から降りると果たして私はとんでもなく間違ったことをしたのじゃないかと目の前が暗くなった。
Mさんはいつもにこにこと、大きく息を吸い込みながら、とてもいいです、と迎えてくれた。けれどそれが許容範囲内であっただけなのか、わたしがそこにいたことで良いふくらみが生まれたのか、それはまったくわからなかったし詳しく訊く勇気がでなかった。わたしがわからないものが、その舞台上にどんな確たるものを生み出せたというのか。
安堵しながら混乱する。
熱がさめないのに床がひどく冷たかった。

舞台上のからだは一瞬で去る。
連れ去られる。
踊り手の手のうちにはないのじゃないかという気がするくらい。
踊るそばから手はからっぽになってゆく。
暴れまわったり爆発したりしても薄い膜を隔ててもう余所にいる。
おどりはひとに見てもらうべきものなのか、ときどき疑問に思う。
わたしが交換していることは、交歓しているものは、なんなのか。

舞台が終わるとわたしはただの、なにかが通り抜けたあとの肉、みたいになる。
それがたまらなくかなしくてさびしくて、けれどそれだけが満たしてくれることがあって、そこに感じる尊さを、なんなんだろうと今だに考えている。


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見に来てくださったお友達がブログに感想を書いて下さった。
dancer in the dark