* からだとこころの点と線

03/02/2009


インプロで踊ることを考えるとき、からだの動きが先か、なにかしらのきっかけが先かということをよく悩む。
このごろ、特に。
からだの動きって不思議で、たとえば手のひらを前にして腕を前に出すというポーズがあるとすると、そこに何かが欲しくて手を伸ばしていると思うのと誰かの背中を温めてあげていると思うのとでは全く違う動きに見えてくる。
逆にこころの中をからにして、からだだけ何かを求めているようなかたちをとってみると、こころの中はからではいられなくなる。たとえば、ちょっと切ない気持ちになったりする。
これはきっとダンサーに限らず起こることだと思うんだけど、たぶん、鬱々とした気持ちでいるときに空を仰いで胸を広げてみるだけでちょっとすかっとしたりすることも、単純にそういうことなんじゃないかなと思う。
これを踊りに落とし込もうとすると嘘はつけなくなってくるし、だからってきっかけを起こすのはやはり自分であるわけだから、そのまさにゼロから1を踏み出す瞬間って何が起きるんだろうかこのからだとかこころのなかで…、と逡巡することになる。

ダンサーとか演じるひとというのは、演じながらにしてさまざまなその感情を味わっているんだなあという気がする。
すごくぎりぎりなところで。
そのぎりぎりな触れ幅が「計算済み」へかたより過ぎると予定調和にみえてしまうし「思いがけない」を振り切っちゃってなおかつ瞬間の判断への訓練ができていないと(ひらめきのセンスとかも関係すると思うけど)なにをしていいか分からない、と立ち止まってしまう。

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テオ・ヤンセンの展示を観にいったときに、風を感じて動くことができるこの作品たちにはこころのはたらきのようなものが生じないのだろうか、ということをふと考えた。
ロボットを見てもこんな感覚は浮かばないが、それはもうロボットというものが、からだとかこころのことを考えるようになる前からすでに知識のなかにあって、ことさら考えることもないからだろう。
それともロボットは目に見えない何かが働きすぎているからかな、テオの作品たちはすごく単純に、ただモノとして動いているのが目に見えるから。

筋肉の運動からも感情を得るように思えるわたしたちと、運動からなにかしらこころのはたらきのようなものが生まれない(と一般には考えられている)彼らは何が違うんだろう。
脳みそのあるなし?(そりゃそうか)
じゃあこころは脳みそにあるのかな?
とか、小学生のころからの疑問をまたここで蒸し返したりしている。

そういう意味でもテオ・ヤンセンは面白かったです。

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何かの折りにほお、と思ってずっとこころに残っていることがある。
『鬱病は骨の歪みを正せば治る』という本を取り上げ、そんな科学的根拠もない説でお金儲けをするなんて酷い!とする意見。
病気を患っているひとはわらをもつかむ気持ちなんだからこんな根拠のない説を掲げて本を売ろうとするなんてとんでもない、という内容だった。

踊ることで、どれほどからだとこころが密接に繋がっているか、ただ「気のせい」にとどまらず精神的なことがいかに物質としてのこの身体と絡み合っているかを感じて知っている(識っている、ではなくて)から、その認識に、そうかぁ、こういう話ってなんかえせスピリチュアルみたいに聞こえるのかぁ、と改めて気付かされた。

私が感じているからだとこころの繋がりのことは私だけのものだから万人にとって正しいわけではない。
この意見を言ったひとがからだとこころについて分かってない、なんてことでもない。
だってその個が感じていたら真実かもしれないし、感じていないことも真実で、それこそ誰も一緒じゃないと思うから。
でもだからこそ、その可能性だってある、と想像してもらえたらいいなぁとも思うけれど。
ただ単に私が知識という裏づけのなさに自信をもてないだけかもしれないけれど、ね。