静寂と

05/01/2009


国立新美術館からの帰り道、青山霊園を歩くことにした。
雨が濡らしたみどりをどうしても見て歩きたかった。
霞ヶ関から新宿まで迷子になりながら4時間くらい歩いたことがあるのだけれど、その時いつのまにか霊園の端っこに迷い込んでしまった。頭が痛くてどうしようもなく、いつのまにその敷地に追いやられたのかわからなくて少しこころがひんやりしたのを覚えている。

たくさんのひとが眠っている墓地を散歩するなんてあまりよくないことだろうか、とも思った。
墓地は細かい雨に濡れて、ひとも殆どいない。
お参りをしている両親くらいの年の夫婦と、黄色いかっぱを着て洗っているおとこのひと。
見かけたのはその3人だけだった。
しんと静かで、雨だれの音と鳥が行き交いながら揺らす枝の音、それから私が石畳を踏む音。
もう長いこと誰も訪れなくてどくだみがにぎやかに埋め尽くしているお墓もあれば、綺麗に草を抜かれて鮮やかな花が挿されているお墓もあった。
錆びた門、角が丸い石、読めない文字、萎れた葉。
見渡す限りの凡て、生きているものも死んでいるものもぜんぶがひとしく静かだった。
鳥は雨がもうじき止むことを知っていて枝から枝へ渡り歩いている。
そのひとしさは鳥になんのためらいも与えない。
ただここを訪れ、さえずっている。
それだけ。
だから私もそれでいいと思った。

お墓を抜ける時に以前私が迷い込んだ場所に出た。
今度は頭が痛くなりはしなかった。

ずっと歩いて青山一丁目の方から神宮に抜け、千駄ヶ谷のガードをくぐって母校を見ながら新宿へ歩いた。
静けさが染み付いてる、と思う。
どんなに太陽が照っていてもひとの騒がしい場所に出ても、そして目に映ったものがどんなにこころを騒がせても私の表面はひとり押し黙っている。

ひとりのひとのことを考えていた。
自分が見るべきものがあるということ、そしてそれをみてほしいと思えるともだちがいることは私の気持ちをあたためた。

(写真は児童公園の入り口の仕切り石。お墓じゃないよ)