* 『寛容のオルギア』ヤン・ファーブル

06/29/2009


自慰行為合戦のようなものではじまり、笑いがこみあげたのも束の間、急に陥る慟哭に揺さ振られて嗚咽しそうになる。
今思えばこのはじまりの感触こそ、彼がこの舞台で示したかった世界のなかに転落してゆくわたしたちの深い虚無だったのかもなぁ。

ここまでやるのか、と何度も思った。
ときどき理性ある(という言い方も変だけれど)ダンサーたちの演技だということがわからなくなった。
もちろんこれは演じられているものだ。
でもここまではぎ取って、しかもつくりあげられるということが同時に満たせるものだろうか?
思いはずっと境目を行ったりきたりした。
驚愕やら嫌悪やら可笑しさやら胸をつかれる哀しみ…ずっとその極端なところを味わいながら過ごした。
ほんとうにぐったりした。
ほんとうになんてパワーなんだろう。

そのどこか究極のデフォルメのようなものがこの世界にはびこっていてわたしたちがその間で何ものにも動かされず上滑りして生きているとすれば、その地下に今も乾かずに引き裂かれた涙はいつ拭われるんだろう?
仮面をかぶせられているものたちがみる夢は、どこに浮かぶんだろう?
薄ら寒くなりながら、なにかどこかで、とても尊くて儚い核のことを考えていることに気付いた。
まるで摘み取るみたいに、かこって守るみたいに。

デフォルメであろうと虚構であろうと、やっぱりそこから生まれた感触もまた、確かにわたしたちが感じたものであって。
ふるいにかけられて網の上に結晶が浮かぶように。

こころの内側の皮膚をいろんな方法で触られた。
それでも、これが舞台だからちぎれたりしないものなのだ。
わたしはまた、わたしに立ち戻る。
あらゆる感触を知ったまま。


アラン・プラテルといい、ヤン・ファーブルといい…。
みているとわたしの半分は落ち込んでくる。
このひとたちと同じ時代に生きているのになぁ!
同じ表現方法を選んで、考えているのになぁ!
って。

+

帰りに脚本集を買った。
『死の天使』のシナリオもあるし、それから小池くんに聞いてぜひとも読んでみたかったイヴァナへのラブレターもあった。
帰ってさっそく音読してみた。
音読しても意味が4割くらいはわからない。
でもその音だけでも、と。
その音だけでもこの口で鳴らしてみたら、なにかが結晶するんだろうか。