* マイケル・ジャクソン

06/27/2009


マイケル・ジャクソン。
一度コンサートに行ったことがある。
小豆くらいにしか見えなかったけど。
あの体を45度くらいに傾けるしかけが今でもわからない。

子供を性的虐待したとして訴えられたときのコメントがこころに残っている。
“自分は生まれた時から世界中の多くのひとから注目されている家族の中にいて、普通に家族の中で愛されるということを知らずにここまで来てしまった。自分が大人になった今、子供を愛するというやり方がわからなかったのかもしれない。”

彼が子供にどんなことをしたのかは知らない。
どんな背景があったにせよほんとうに子供をひどく傷付けるような行為があったなら言い訳なんか聞きたくない。
けれど日本でいう性的虐待とアメリカでの性的虐待ってすごく基準が違っていて、たとえば実の親であってもある年齢以上の子供と一緒にお風呂に入るだけでそれにあたるそうなのだ。
州によって法律が違うからこれがどこのものかはわからない。
彼がしたことがそのくらいのことかどうかは知らないし、実際そのような法律があるということはそういう文化なのであり、そのことがひどい苦痛なのかもしれないのでわたしもどう考えていいのかわからないのだけど。
それにわたしはマスコミを信じていないのでもっとわからないのだけれど。
(なので、ここでは問われた罪や傷ついた子供のことには触れない、ということにさせてください。私の文章力では自分の考えをちゃんと文字に出来る気がしない)


そのことばからわたしは、深く、個人と世界との感覚の断絶のかなしみみたいなものを感じた。
想像したらしずかなかなしみが胸を覆った。
ほんとうに愛したかったとしてそれがどんな種類の愛し方をしたらいいかわからない、なんて。
誰だって問題を抱えているけれど、それが個人の範囲、家族の範囲を越えて、世界中からの悪意や善意をたったひとつのからだに受けざるをえなかった、その気持ちってどんなものなんだろう。
いろいろなものを享受しながら、いちばん身近であるはずのものがぽっかり抜けている、そのことに気付かず生きてゆけるということっていったいどんな…?
彼に同情しているわけではない。
それはわたしの想像の範囲を越えているから。
でもだからこそ。

そんなことを言ったらその子供の受けた気持ちだって想像もできないことだし、なにとも比べられないのだけれど。
幸せにも不幸にも、比べる物差しなんかないんだから。


悲報を受けてまっさきに思い出したのはそのことでした。


私は芸能人のゴシップみたいなものが本当に嫌い。
お昼の芸能ニュースをあつくなって語っているテレビのなかのひとも嫌い。
mixiのニュースに対しての日記を時々読むのだけれど、たくさんのひとがゴシップをそのまま受けとって、またはよりひどい方向に捻じ曲げて考えをつづっていることに愕然とする。
あのなかのどれほどが本気なのかわからない。
けれど、自分の目で見たり聞いたりしたもの以外の情報をそのまま受け入れて本気で傷ついたり怒ったり、はたまたさらにひとを傷つけたりしている。
自分の考えや判断すらなんども繰り返し疑ってみなきゃいけないと思う。
それなのに、信頼できるひとからでもない情報を鵜呑みにしてしまうなんて。


マイケル・ジャクソンの「父として子供を愛する方法がわからなかった」という言葉も直接きいたわけではないんだけどね。


ムーンウォーク練習したな。
いまだにできない。