* インプロヴィゼーション

07/27/2009


インプロ(即興)に対してちょっと前からむくむくと疑問がわきあがっている。
自分の中のインプロへの問題ももちろんあるけどそれはそれとして、作品のなかのインプロ。
ある状況とかイメージを与えられて(または与えられぬまま)そこにあるからだが動きをつくりだす作業があって、たとえばその空間に複数のひとがいたとしたらお互いに影響しあうかもしれないし影響しないかもしれない。接触がおこるかもしれないしおこらないかもしれない。
そういう作業からダンサーや創り手が得るものはたくさんあると思う。
けれどこれは見ている側にしてみたらどうなのだろう。
ダンサーは動いているわけだし展開もしていくかもしれないから単純に面白いかもしれない。
その作業を実験的なものとして観察すれば興味深いかもしれない。
でもそれを完成された作品として感じてもらえるのかな?

示す方がそれとして意識してつくっていればインプロも作品になりうると思う。
ただし私はインプロがおおかたを占める作品をあまり面白いと思ったことがない。
単に私の好みかもしれないけど。
どんな動きをしているかということは今の私の興味をそんなにはひかなくて(だってどきどきしちゃうようなはっとさせられる動きなんて、もう、そうそうないのかもしれない)、面白いなと思うとすればダンサーたちのあいだにふと生まれた同質なもの、もしくは時間的なずれ、対比、同調。
でも、こういう面白みを完全なインプロのなかで求めるのは賭けに近いものになると思う。
面白い、と思ったとたんにきっと次の動きに飲み込まれてしまって、積み重なることがない。
いつもちょこっと乗せられてはのせられきれずにまた待たされ、待っているうちに終わってしまう。
私のインプロ作品に対する印象ってたいていこんな感じ。
素敵なダンサーであればあるほどなんだかもったいなく感じてしまう。
この作品にはインプロであるということ自体に意味がある、という明確な目的がない限り安易な気持ちでインプロを多用すべきではないんだろう。
たとえばわたしのからだをさがす過程を見てほしいとか、ダンサーたちの意思疎通ができるのかできないのか、その微妙さを感じさせたいとか、…たとえばだけれど。

インプロって、作品を創る過程に必要なものなんじゃないかなーと思う。
その場所で感じることから動きが生まれ、それをまさにそのときに見せたい!という考えはとてもよくわかるし、それで発見することは大きいから。
インプロを重ねてそこから抽出したものからまたインプロをすりあわせ積み重ねる…という作業はきっと、会話を重ねてそのひとの個性をそこに提出し、編んでゆく作業なのだと思う。
そうして作り上げたものはやっぱり緻密だし、つながっている瞬間もそうでない瞬間も安心してみていることができる。

たぶん今そういうことに興味があるというだけなんだろうな。
インプロはダメ、とか言いたいわけじゃない。
(でも面白くないと思うのはほんとう)


淡路島での踊りは、ちゃんとすじみちをもってゆこうと思う。
もちろんその場所も感じて、臨機応変に取り入れるゆとりも持ちつつ。
あまり器用じゃないからゆとりを持つにはちゃんと決めておかないとダメだから、自分なりに組み立てよう。