memo/つみかさなるかんかくについて

07/21/2010


今だから生身で受け取ることを信じるのだ、というのは、なにも踊り手や身体をつかうことをなりわいとしているものだけではなくてきっといろんなひとが感覚のどこかで感じ取っていることなのではないかという気がする。
つまるところそれがほんとうは一番信用できることだとどこかで知っている、というような。
さかいなく多様なことが含まれているから複雑であるともいえるんだけど、だからこそこそ正直で的確な感触であるということだから。

どれだけ皮膚でものを感じているだろうか、とときどき考える。
普段はあんがいいろんな感覚を閉じていて、取り入れることといったら耳や目やことばといった強い情報源に傾いている。
強い筋肉をどうしても使ってしまうみたいに、強烈な印象のあることがまず満たして、微細なことはまるでおいてきぼりになってしまう。
そうじゃなくてもっと遠いものを、もっと細かなものを、ターゲットを定めないでただ空気を吸うみたいにやんわりと受け止めて、波紋の中心にいるみたいに響いてみよう。
もちろん音や見えるものを捨てられるわけではなかったし、それはそれでよかった。
でもひとが通り過ぎる空気の流れや、高い雲が動くこと、風になびく葉、自分以外のものが地面に触れている音や振動、いろんな匂い…そんなものがめまぐるしく飛び込んできて感覚は忙しくその方向にひらいた。
かわるがわるどこかを大きくひらかないと、うまく受信できないのだなあ、これをいっぺんに、処理のことなんか考えないでつつぬけ、という感じで欲しいのに。
そう思ったけれど、でもそれでも、その時の感覚は素敵だった。

小さい頃はこんなふうに選んだりしない瞬間が多かったんじゃないだろうか?
それともむしろ無意識にすべて選んでいて、それを学習したのが今のわたしなのかな。
子供の頃からの動き、無意識に選ぶもの、何故好きだと思って何故苦手だと思うのか。
どうして心地いいからだの動きと、苦手な動きがあるんだろう。

自分の昔住んでいた場所を撮りにいくのは、こどもの時の感覚を視覚的につかまえたいんだろうかと考えたりする。
時間の中に染められた自分の(自分の風景の)姿を見て、わたしはなにを確かめているんだろう?
確かなものはその時にある、とばかり思っているわけじゃない。
たしかなものは今にしかないような気もしているのに。

踊ることは自分のある時点の感覚を再現してふたたびこころを動かす行為なのかな、と考えることがある。
そしてできれば、再現以上の、知らなかったところへのぼりたい。
わたしの知らないからだの爆発をみたい。
爆発を感じながらもつなぎとめているその様子を、綱をにぎりながら楽しむスリル。
もしかしたら自分がいちばん正直にはなす方法。

とはいえ、いまはとてもそこに近づけていない。
すごい突飛な衣装を着けて、時代錯誤なセリフ回しをして、アクロバットしながらはなしてるみたい。
もしくは、緞帳があがりきらないのにはなしてるみたい。

あーあ。
もどかしい。