『陰影礼讃―国立美術館コレクションによる』、リアルということの考察

09/10/2010


最後の部屋のあの感触はいったいなんだったんだろう。
すりガラスの向こうに人がいる。
見ているこちら側のことは知らず、そこでは日常のとあるほんのひと場面が繰り広げられている。
ガラスに近づけばそれはよりはっきり見えるし、遠ざかれば靄のむこうに消えてしまう。
声も同じこと。
遠くのサイレン、内容までは聞き取れない会話(私が日本語以外わからないからかもしれない)、それがちょうどその距離、このガラスの厚みだったらそのくらいだろうという量の情報としてそこにある。

はじめにその部屋に入ったとき、そのガラスの向こうに、この美術館の外の休憩所が見えるだけかと思った。
次に役者さんがいるんだと思った。
そのくらいにリアルで、でも一瞬のちにそれが全て映像だと分かった。
部屋はまったくの箱で、ガラスなんてない。
ただの壁にガラスとその向こうの光景が映し出されているだけ。
その瞬間わたしはどこかに投げ込まれたみたいな気持ちになった。
なんとも説明のできない気持ち。
それがなんなのか、今でもわからない。
最初の勘違いがくつがえされたことによる反応も確かにそこにはあるんだけど、そこで受けた感触が危ういくらいにからだを包んでしまって今も抜けない、そのことはそれだけでは説明がつかない。

何かを強い口調で話したり、ガラスに寄りかかって煙草を吸いながら話したり、泣いているように見える友人を慰めたり、新聞記事のようなものをガラスに押し付けながら読んでいるひと。
ほんものだと思ったときには感じなかった何かを映像だと分かった途端に感じた。
その何かがなんなのかこうして考えてみてもことばにできない。
その境界線に、なにがあったのかな。
ただ、今そこにいて同じ時間を過ごしているわけじゃない、なのにこんなに圧倒的にリアルにそこで息をしているように見える、ということ…そこにいるのにそこにはいなくて、そこにはいないのにまるでそこでたった今その行為をしているような。
残された思念みたいに見えたんだろうか?
ガラスを隔てただけなのにどんなに近づいても当然向こうは気付かないということが、切り離されたのがまるでこちら側であるかのように感じたのかな。
たくさんの扉が、たまたま集まってしまった空間に突き落とされたみたいに。

たとえば映画とどう違ったんだろう。
たとえばマジックミラーとはどう違う?
すりガラスだから向こうが近づかない限り見えてこないというのも多分一因。
同じ時間であるはずの距離のものが、別の時間のものであるということも一因。
このひとが今生きているかもわからない。というようなすっと冷える感触さえあった。
(多分ぜんぜん違うけれどCGとか合成とかをうまく使ったCMで、もう亡くなった方と共演するものがあったけれど…なんだろう、やっぱりそれとも違う。)


もうひとつ考えたことは、ことばが聞えなくてもからだから受けとったサインのようなものから感情を受けとろうとするのがもしかしたら自然な、強い反応なのかもなあ、ということ。
きっとそれは赤ちゃんの頃からひととコミュニケートするためにとても重要な感覚としての機能だからなんだろうな。
目に飛び込んでくる情報がいかに個々の想像によって分析されているのかということを改めて気付かされた。
からだは記号なのだな。
感情をのせようとのせまいと(というか感情をからだに滲ませるっていったいどういうことなのかほんとうに自分がわかっているとは思っていないけれど、もしそういうことでからだに色付けをできるとしても)、もしかしたらそれよりも強い情報がもうすでにそこにある、ということは忘れてはいけないかも。

特別じゃない、誰のためでもない行為がすりガラスの向こうで行われていたから、なにかそれを覗き見ることにとくべつな気持ちを感じたのかもしれない。
特別なことである踊りよりもよっぽど、なんでもない行為を見ることのほうが特別なのだ、きっと。
踊り手は平凡な特別から逃れることができないのかな。
踊ることとそれをつくって見せることは同じわたしがすることだから、切り離すことができない。なんでもないこととして踊りを存在させることってできるのかな。たぶん無理。
だって踊ることを隠し撮りしたってそれは特別じゃなくないし、普段のわたしを見せたってそれはダンサーじゃない普段のわたしでしかないし。
踊りは、日常とか、なんでもないものとしては成り立たないものなのかな。
目的がないからか。
それとも踊ることでしかダンスは成立しない、というあたまがどこかにあるからこれを対立項としてみちゃうんだろうか。

だから踊ったり演じたりするのは、劇場という特別な場所で囲わないといけないのかな。
日常はあまりに強すぎる。
目的のある動きに、つくりだす贋物のリアルは勝てない。

ただたとえば噴水の端に座っているおじさんを眺めるほうがもしかしたらうんと面白いし、飽きない。
そのことは演じ手としてはとても困ることであり、でもまた、とても素敵なことでもあるとも思う。
こまるなー、でも。


百瀬陽子さん個展、美術館のこと補足