たぶんちょっと動物に近いやりかたのこと

06/10/2011


なにもかもをピンで留めたようにしっかりと覚えておきたい気がして、でもわたしのあたまの構造はどうやらそういうふうにはできていないみたいだ。
何もかもが漠然と感覚だけに訴えて、詳細はさっさと時間のかなたに飛んでゆく。
映像や色のにおい、音の温度、胸のあたりがどんな感触だったか、皮膚はどうひりひりしたか。
そういうことだけを濃く植えつけて、でも言葉とか名前のようなものは剥ぎ取られるみたいにどこかへいってしまう。
そういうことを少しでもくいとめたくて、最初はこうして日記を書き始めたのだった。

本を読んでもすぐ表面的な内容は忘れてしまう。
だからなるべくノートを取りながら本を読む。
読み進みたい欲求と、留めておかなければという焦燥とのあいだでいつもどきどきする。

からだのどこかに受けたものは細胞のひとつひとつを新しくするけれど、言葉や文字を覚えておけばそれをまた体験できるのに。
忘れているからこそまた発見もできるのだろうし、それはからだのなかでは2回目の体験として、2週目の螺旋階段のそのポイント、ということになるのだからなにも無駄ではない。
無駄であることが焦りにつながるわけでも、ほんとうはないんだろうけど。


このごろ、でもたぶんわたしの世界とのやりとりの仕方はいつまでたってもこんなふうなんだろうな、ということをぼんやりと諦めはじめているし、自覚しはじめてもいる。
きっと採集するみたいにきちっと整然と分けてゆく、整理して積み上げてゆくことに憧れを抱き続けるのは変わらない。
けれど私はたぶんそっちを入り口としているタイプではないんだろう。
いかんともしがたくかえってきてしまう自分のやり方にもっと掬いとるべきところはあるし、この入口からの探求を楽しんだほうがいい、という気がちょっとしている。