片方だけもらうことはできないらしい

03/23/2012

今年はじまってどのくらいとか去年の個展からどのくらいとかこないだ踊ってからどのくらいとか、いつもそんなふうに時間の経過を紐解くのだけれど、このごろはいっかな把握することができない。
海底の深海魚しかまだぴくぴくしてないかんじだけどそのうちぽっかり島が浮き上がってきたりしそうな予感めいたざわめきで、からだじゅうが忙しい。そんな感触。

当たり前なことなのに忘れていたけれど、自分にとって「良い」とするものにやわらかにこころを開けばおのずと、自分にとって「悪い」ものまで引っ張り出されることになる。
わたしはそういう良いにも悪いにもうんと掴まれたりかぶったりする質だという気がしていて(それはひととの比較ではなくて自分の容量と釣り合いをとろうとした時にということだけれど)、手に負えない範囲のことがみちみちとはじまる前にぽっと意識を問題から外す芸当を身につけた。目をぱっとそらすとそれが見えなくなるみたいに、感じていることと自分をちょっとだけ遠ざける。
お面と自分の隙間みたいなかんじ。
身につけたのは小学生のころだったけれどそれまで私はよく興奮して熱を出したり痛そうなシーンをテレビでみては皮膚が痛くなったり、気持ち悪くなったりした。
それから、とにかく何がかはわからないけれど悲しくて毎晩こっそりたくさん泣いてしまうようなこどもだった。
なにがかなしかったって、すべてのことがかなしかった。
空が大きいからってかなしいし、愛されても愛されなくてもかなしかった。友だちが自分の話を聞いてくれない気がしただけでかなしかった。ベッドに、うさぎのぬいぐるみが待っているだけでかなしかった。おばあちゃんが遊びに来て坂で手を振って走ってゆくだけでかなしかった。
要するにわたしはこころを動かされて涙が出そうなかんじになることをすべて「かなしみ」に分類していただけなんだけど。

そういううまく処理できなかったり判別できないものがわっと湧き出てきて、自分にとっては蓋をしたいような部分が副産物としていっぱい手にとれる。
みろみろ、って目の前に出されて、それから逃げるように眠ってしまう。
そんな繰り返し。

でもなんだか、きっとどうにかしてゆくのだ。
いっつもそうだもの。