Esse est percipi

04/19/2012

即興演奏が当たり前のように成り立ってしまうことが不思議だ。
目の前であまりにも当たり前みたいに展開するから、なぜなんだろう、だけが置いてゆかれて身を委ねる。

誰かと一緒に踊るときそこにはさまざまな繋ぎ方があって、余裕のあるときにはそれを次々に接続してみたりする。
どこまで外せるか、どこまで寄れるか、裏切り方のタイミング、緩ませ方や、やっとの思いで探る時、意識的に切らないといけないくらいひたっとしてしまう、
フォルムを合わせることとコード進行が合うこととは別のことなんだろうな、じゃあ踊りの場合それと共通するものがあるとしたらなんだろう。

相手とある程度の距離があって、相手が先行してくれるとき。
私が誰かと即興をするときにやりやすいのはそういう組み合わせ。
ひとりで踊るときにはただ自分でいればいいけれど誰かと踊るときにはその誰かに隠れる。影のようになって、だんだん逆にひっぱってゆく。そういうやりかたが好きだ。
うまく運ばないと隠れて終わることになる。
相手と身体的なコンタクトがあると構えてしまう。
力加減がわからないからおっかなびっくりになって妙な距離をとってしまってお互いここちが悪い。
これはとても、人間関係と近い。


ひととひとは繋がったり離れたりする。
そういうことをうまく受け入れられずにきた気がする。
失くすことに真剣になれずには、目の前のものとほんとうに話をすることなんかできないのかもしれない。
いつもどこかにこころを置いたまま、今の景色のなかにいる。
今現在、がいちばん稀薄だ、と感じる。
まどろみのなかに漠然と身を置いて、過去やこれからの像を追っている。