「嫌い」って言うことのはなし

05/18/2012

“「好き」のことばかり話して「嫌い」を言わなければ、そのひとの「好き」の強さが薄れる” ということばにどきりとする。
それは誰にでも当てはめて言えることではないかもしれないけれど、わたしにはたっぷりかぶさることばだと思った。

嫌い、を言わないのには自分なりの理由がある。理由があるのできっとこれからもそんなにたくさんは言わない。
けれど「嫌い」を言わないことで自分自身が余計になだらかになってしまっていることも確かだ、と思い返す。自分のなかでだけ持っていればいいこともあるけれど、表明しないことでぼやけてゆくことだってある。
ことばはなにしろ一番自分に響くものだから。
「嫌い」を言わないのに「好き」は言う、じゃあ私はその「好き」を「嫌い」ほどに考えぬいているだろうか。
ポジティブなことは簡単にくちにしていいのだろうか。誰かを不快にさせる可能性が少ないから?でも自分が発したことはいつだって、どんなふうに相手に届くかなんてわからない。
だからその重さを丁寧にはかって、選ばなきゃいけない。
責任がとりたいならとれるだけのことを、温度を伝えたいならそこに近いものを、だってからだから出てしまったものはもう戻せないのだから。

自分がほんとうに伝えたい気がしていることを、まさにそれだ!と思えるようなことばに変換できないことが多い。
直接話すときなんか特にそうで、おなかのなかからやっとこ引きずり出すその作業を誰も待っていられないだろうと思うと、ぴょい、と中途半端なことを言ってしまう。わああ。なにそれ。なにそのことば、なにその口調!ほんとに私のことばなの?!って内心ショックを受けたりする。でももちろん私からでたんだよなあ、とか、修正しなきゃとかぐずぐずしているうちに他の会話に移ってしまう。
ぽつんと、冷や汗が残る。

大事なことは、多くのひとの目に触れる場所では、なかなか言えない。
それは自分がまだなにも知らないと知っているから・・という情けない理由が大きいのだけれど。
ひとはあまりにもたくさんいてたくさんのことを感じる、それでも私は押し通してこれが言いたいよ、というだけの責任を、ことばという限られたものではなかなか取れない気がしている。
いや、そもそも責任ってどういうことだろ、どこまで行っても責任なんてとれるわけないのだけれど・・少なくとも、全部もうそうするしかなかった!という覚悟が取れるまでは、言えない・・みたいな弱気もあって。
それから、なにかしらの可能性がそこに生まれなくなることがいやなのかもしれない。
私が言い切れば、誰かが黙ることになるかもしれない。

わたしは踊ることが好きだから、喋らずに踊っていればいい、踊りで伝えればいい、なんてとうの昔に考えてなくて、だって踊りってそういうこと伝えるのには向いてない、やっぱりもしことばで伝えられることがあるならその可能性を無視したくはない。
言いたいこと、言うべきことは確かにある。
黙ってやり過ごすことが無責任に繋がることも。
嫌いのことだって、好きのことだって、言いたいときには言おう。
なぜならたぶん、私もそういうことが聞きたいから。

私が言い切れば、誰かが黙ることになるかもしれない。
けれど、私が話をしなければ、誰かも何も言ってくれないままかもしれない。


ときどき一緒にいるひととバトルになることがあってことばのむつかしさに、それからことばが簡単になにかを収束させてしまうことについて辟易したりもするのだけれど、でもこういうことに全身で向かえるようになったのも、今のわたしにとっては大きな変化で、まだまだ掘り出したい。