ミュンヘンの友達へ

06/13/2012

ミュンヘンにいる友人のブログを読んでいたら彼女が書いているのが自分のことだと気づいた。
この頃はこんなふうに誰かがわたしのブログを読んでくれているのだということを忘れていたから、まったくふいをつかれて、電車の中で涙が出そうになった。

毎日ものを書かなくなった。
書かない理由はいくつもある。
アパートメントをはじめてからはおいそれと言葉を発することができない気がして、小さな歯止めがかかる。古いことばは余程の熱を持ったものでないとあらわされなくなる。そう考えると、大きな熱を持たないことばをぽんぽんと書いていた今までのことがわからなくなる。
それが理由のひとつめ。
もうひとつは、目まぐるしく変わる自分についてゆくほどわたしのことばにはスピードがない、だから積もったことばは簡単にほぐれてくれず、出てゆかない。加えて今この時を噛み砕くことに懸命で、消耗してもいる。もちろん、この消耗が悪いものだとは思っていないのだけれど。

今の私はよく書いていた頃に比べて毎日たくさんのことを感じなくなった。
前のような種類の細かい揺れを見つめることや、見ないものをみつけるみたいなことがもしかしたら少なくなった。
わたしにはもっとたくさんのことができている気がしていたのかもしれない。なにもない、と足元が崩れ続ける今、じゃあ落ちないように走るしかないじゃない、と、脇を見ずに食いついてる感じがする。
わたしはずっと動物とか、夢の中にいるようなところがあったから、今は人間になることに必死なのだと思う。
分厚い蛹みたいに、自分と世界が遠い。自分が重たい。
果たしていい経過なのか、どんな変化が訪れるか、実際のところはわからない。
わたしはもしかしたら持っていたものを失おうとしているのかもしれない。
そう考えると漠然と不安や郷愁が靄のように包むけれど、失うことを怖がるほど、わたしは持っていなかった、とも思う。
けれど自分がどこかで硬化してゆく感覚に怯えていないのはもともと持てるものが少なかったせいじゃなくて、どんな道が待ち受けていようとも、いまの見えない内部で行われていることが自分にとってだけは納得の行く醸造作業であらねばならない、そのためにただ意識を貫くしかないとわかっているからだ。
失うも得るも、全部自分だけのものだから腹をすえなきゃ、と。
それを、たとえば芸術のようなことばかりではなくてひとである自分ということの上にも置けるように、少し変わったからなのかもしれない。


彼女とは、いつか会えると思っている。
いつか会いたいです。
アウグスブルクにもね、大切な友達がいるの。
だからもしそこに行くことがあったら、きっと訪ねます。

書いてくれてありがとう。