山に登ったり降りたりの誕生日

11/23/2012

山に登った。
朝起きてタンスを開けたらサンタさんから山登りセット一式が届いていて煙突はなくてもきっと開け放した窓から入ってきたのだろうと登山靴を履いてどたどた階段を降りた。
はじめの山登りは金時山で、結構体力がないことがわかって翌々日ににわかに走ってみたりして、朝の美しい景色に気づいたり早朝散歩のパピヨンに懐かれたりした。
誕生日の日には丹沢に行って山をはしごした。
にわか体力作りは少ししか役に立たなくて登るのにうんと苦労したから私たちパーティは最後の山小屋につくまでに日が暮れてしまった。ちゃんと頭に付けるライトがあったから迷わずに山小屋についた。
山ではいろんな種類の美しい光をみた。
倒れた大木に踏まれない苔がふわふわと生えて、舞い降りた種から小さな葉がうまれて、誰かが一つずつ置いてくれて登りやすくなった石だとか渡り廊下だとか、高度を増すにつれて深まってゆく秋の赤とか。
富士山の向こうにおりてゆく夕陽を3人で見ていた。
山の影を見ていたらほんとうに大きいのは太陽なのか山なのかわからなくなった。
すくんだ足で崖を降りながらぱたぱたと連なって倒れてゆく霜柱がきれいだった。
一日がしっかりと暮れてゆくから町にもぽつぽつと灯りが増えて、山はいつもこうしてわたしたちを見ているんだなあと思う。
かき集めても溶けない霜柱と同じように、すくってざらざらと何処かへ集めることができるみたいな灯りだった。
楽しみにしていたカレーを忘れたのでおにぎりとお味噌汁で夕飯にして、凍えながら流れ星を待った。
夢をみているみたいに景色が広くて、全部はみえない。わたしがすごくちいさいからだ。
寝苦しかったのはからだがすでに筋肉痛だったのと、山を登ったり滑り落ちたりする夢をみていたからで、何故眠っているときは痛かったり痒かったりがあんなに大袈裟なのだろう?うんうん唸っていたら時々一緒に泊まっているおじさんと寝言で会話したりもしてた。
ごそごそおじさんたちが起きるのと一緒になって朝日を見て、さらさら足で霜柱をかき分けながら富士山のおおきくて美しいのをみた。
知っている色のほとんどすべてをそこに見ようと目を凝らして、やっぱり水溜りの氷も寒さで溶けはしないのだと知った。
夜中にはうんうんいっていたのに元気で、歩き出したらでもまたすぐに疲れてしまった。
道になっていないところを動物みたいにぶら下がったりよじ登ったりしながらずっと必死で、1日をただどこかに進むために使うなんてこと普段はないなと思う。そう思ったのももちろん降りてからの話で、そのときにはどの岩を掴めばいいのかとかどの枝は折れないか、次の一歩のことだけにからだを全部傾けた。
ときどき朽ちた樹に座って甘いものを食べたりして先が長くて呆然としながらみんなちいさいのに山を登ってまた降りたりして可笑しいな、けどなんかすべてはそんなことのような気がして山登りはそれをただぐっとあっというまに縮めただけなようだとも思う。
大変な時に本性というものは出るので、わたしは自分がすぐへこたれるのだということを見せつけられて少しかなしかった。
わたしが強くいられるのは守るものがある時にのみで、自分が一番足を引っ張る立場になると途端に色々見失う。
山猫のように強靭だと思ってたのにぜえぜえしちゃうし。
9時くらいから歩いたのに結局真っ暗になるまで歩いてそうしたらほとんど道に迷いながら沢を降りた。
ごろごろ大きな岩を渡り、とげとげのいばらを分けて、傾いだ橋を渡り、誰かが打ち付けてくれた鎖を引っ張ってよじ登ったり滑り降りたりした。
山は容赦なかったけど友達は優しくてわたしをおいて行ったりしなかった。
山の麓まできたらわたしのヘッドライトに照らされた鹿の目がたくさん周りにあって、真っ暗になるまでひとがいるなんて変なの、と不審に思っているようだった。
道路に降りたらからだがほっとしたのか足が急にいたくなってバスに間に合うようにびっこを引きながら急いだ。
夢みたいだ、と思いながら歩いた。
真っ暗だから途中何度も歩きながら夢をみた。
バスの中で眠りながらこのまま夢だった気持ちで閉じ込めてしまうのかなと思った。
揺られながら良太くんがわたしの荷物をいつのまにかまとめてくれているのを聞いていた。
からだが熱くて目が覚めたらちゃんと山登りの格好で聡くんが前の座席にいて、バスの前のほうをみていた。
山の中にはなかった自動販売機で買ったポカリスエットをごくごくすごい勢いで飲んで、ちゃんと降りてこられて楽しかったね、と言った。

誕生日にも知らなかったことをもらった。
この一年はいろんなことのやり直しで、そのたびに嬉しいのにそれを得てこなかった今までの時間にやるせない気持ちになることも多かった。
新しいことに出会えるのは喜びであるはずなのにどうしてか年々、からっぽの手に気づくことにしんどくもなる。
いつだってからっぽなことを恥じることなんかないじゃない、と強くいられたらいい。
わたしの呪いはからっぽであることそれ自体じゃなくてからっぽであるはずがないという驕りなのだ、いつだって。

帰ったらたくさん誕生日おめでとうのメッセージをいただいていた。
信じているふりをしたいのは強がりたいからで、ほんとうは図太いほどなのに表面が臆病に覆われていてそれを剥がしたい、それはもうぜんぜん自分だけのためじゃなくて、ともだちに追いついて笑わせたいからなのだというふうに思う。

また山に登りたいけどしんどくて怖いなあ、と思うのは一歩ごとに踏み外す想像にとらわれるしその想像にからだがついていってしまうのを恐れるからだ。
いつのまにこんなに怖がりになったのかな?小さな頃は忍者の修行だと思ってわざと怖い道を選んだのに。いっぱい、重くなってしまった。

ゼロでいいやとはやっぱり思えない。できることを増やしたいし、できないことがたくさんあるのを知った時に本心から悔しがりたいし、いっぱい泣いたり嬉しくなったりするのだ、これからも。