どうやら私は時間軸に沿って居るということが苦手なようで、

12/06/2012

門から覗いたら誰もいない公園のずっと奥まで見渡せてどきどきした。
ひとりきりで過ごせるのだもの。
音楽もひとの声も、色も、土や植物や空のもの以外はなにもなし、黙って同じになっていればいい。

どんぐりで滑らないように足元を見て歩いていると落ち葉でそばにある木が変わったのがわかる。
『木をかこう』みたいに根本から太い幹の分かれる部分、それから枝がどんなふうに節をつけ、また分かれているかを見る。
かえでの根本の明るさに驚く。
いつのまにか歩こう会みたいなひとたちが40人くらいがやがやと通りすぎるけれどわたしは変わらずひとりでいられた。
さながら植生を調べるひとみたいに土のやわらかさをはかり、幹に触れ、枝のひろがりから何の木であるかの見当をつける。
藤や蔓がからまった大木から甘いかおりがする。
曲がりくねっていても切り裂くように真っすぐでも、枝はやはり空に沈む骨みたいに見える。
鳥たちが騒がしい。雨の谷間だから。

こころの向くままに近寄ったり、気の済むまでじっと見上げたり、しゃがみこんで発見したりする。
目は次々にうつって、誘導する。耳を目が追う。掘り返した記憶が淡く流れる。
やわらかに断ち切って、また見るのはただの枯れた葉や雨のあとだ。
情報がないことで、より情報は細分化される、とふと考えた。
木の肌にどんな湿度の苔が生えているのかとか、やっぱり柿はこの時期実しかなくて葉を落とすんだとか、藪に踏み入れる瞬間のにおいとか葉のすれる音、寒さに襲われる指、ふいに首にさすおひさまのことがある。呼吸の音が聞こえる。あとどのくらいここにいたいのか。ちょっと引き返してみるか、通り過ぎるか。
一瞬いっしゅんかけぬけて、わたしは択んで、また瞬間で平らかに整え、揺るがされにむかい、また正す。
少しだけ、いつもよりこちらの方へ針が寄ってゆく。ゆ
表面になにかが当たってこないから、自分の好きな隙間で窓をあけて、風を通すことができる。そしてただ、包まれたりくるんでみたりできる。
鮮やかでとがっていないから目や耳では見過ごす。
けれどそれは確実にそこをとおっている。
時間は空気で、ひかりで、そこにあるものとわたしとを一緒くたにして置いてくれている。
普段のわたしはなんてあっさりとそのことを忘れて、離れていることか。

撮りたいと思うものだけを疑問なく撮り、手を出してみたもののこころが従わなかったものについては撮らなかった。

わたしが音楽を聴かないのは、音に音階やことばが伴うことが“多すぎる”からなのだ、と知った。

普段なんでもないのにときどき何かに焦ることがあって、でもどんなに考えても焦ったり不安になるような原因はないのだった。
けれどたぶん、そういう時は“多すぎる”ときなのだ。
氾濫のなかにいて、でもだからこそ足りなくなっているのを感じている。
黙ってひとりで歩くようなことが、ただそのことでどれだけ多くの交換があるかを知っていて、そういうものでないと満たされない乾きがあるということ。
いつもどうして忘れてしまうのかな。