また色のなかで

01/23/2013

ふと、薄墨を流したような空を見ながら合点がいく。
昼間としさんと話しながら聞いた鳥の声はひよどりで、わたしはその時しばし胸に何かが爪をひっかけたのを感じたのだった。

わたしの帰りを、むせるほどに喜んで鳴いた小鳥はいっかなそばを離れずに終始少し怒ったようなそぶりで甘えてきた。
そんな風に甘えられてもわたしはまた旅立ってしまう。だからわざと自分の里心を振り切るみたいにあんたはまた甘えて、とあたたかい羽根を少し乱暴に撫ぜる。
そんなふうに全部を頼らないでほしい。身勝手にどこかに行ってしまうわたしを恋しがらないでほしい。雛の時に助けたのだってわたしの身勝手なのだから、それからずっと手で包んだり寝かせたり目をみつめたりして、でも小鳥はわたしの預かり知らぬちからで飛んだり、羽根をつくろったり、小さな焔のように生き延びてきた。
また長く出かけてくるね、と玄関で別れながら、どうして、何処に行ってしまうのかと不思議だろうと思う。自分は出かけたことのない場所に、このひとはいつも何の決まりごともなく去って、またふいに帰ってくる。
小鳥は毎日を規則正しく過ごしていて、それを共に暮らす私たちの中にも見出そうとよく観察している。私の動きはまるでわからないことだらけで、きっとしょっちゅうわたしを今かいまかと待ってる。
だからわたしはきちんと説明をする。30回夜がきたらまた帰ってくるよ、と。もしかしたらちゅんの仲間がいないところだから声も聞こえないかもしれないけどね、話しかけてみるから。と。
そうすると小鳥は黙って、仕方なしにわたしを見送る。

また、今度はいつ帰ってくるの。
おばあちゃんの家から帰る時にもいつも言われる。
ひとも動物も生きていればいつ、また帰ってくるね、じゃ済まない別れがくるかなんてはかれない。けれど小鳥とおばあちゃんに関してはことさらに、いつも別れの辛さやちょっとした心のひっかかりが何かの予感じゃありませんように、と祈らずにはおれない。

なんて、また春にびいびい鳴く小鳥を見ることだろうし、わたしよりいっぱいご飯を食べるおばあちゃんを見ることだろう、と思うのだけれど。
どうかそうでありますように。

雪国に向かうバス。
まだ雪は見えない。