冬からまちへ

01/20/2013

さらさらと長靴のうえに崩れかかる粉雪も踏めばきちきちと固められて、のぞいた陽射しにもおいそれと溶けはしない。
車に乗り込んで久しぶりに白馬の村をあとにする。
左右に続く高い山はどれも頭が雲で繋がって、大きく霞んでいる。自分との距離がはかれないから地続きであることがうまく手に取れず瞬きばかりしていた。
IKEAに行こうよ、と何故か気まぐれを起こしたTさんとMさんは出発した途端もう何故東京に行くのかよくわかんないよね、と笑っている。話すふたりの顔は見えなくてずっと頬の端っこだったりつむじだったりばかりを見ているんだけど、たぶんふたりをこの角度から見るたびに今日のことを思い出すのだろうな。
後ろの座席からからだを乗り出してずっと笑っていた。

ある隧道を抜けると雪が見えなくなるどころか山の樹々が紅くて、秋なのかと思った。紅葉ではなく冬枯れの色なのだとすぐに思い直したけれど、鳥が道を横切り、椿が道の垣で咲いているのを見ると、季節が逆行しているように思われた。

小さなパーキングエリアで春のような陽射しを浴びながらMさんが真っ白な富士山がもう後ろにあることを指差して教えてくれる。
八王子に入る頃には出発してから4時間ほどしか経っていなかった。
長野(白馬はほとんど新潟に近い。日本海がすぐにある)と東京はこんなに早く往き来ができるのだ。
都内に入るとヒヨドリの鳴き声を久しぶりに聞く。ただいま、と挨拶をする。たぶんちゅんは白馬にいる私の声がごくごく微かなので聞き取るのを止めてしまったのではないか。心配なのでいくぶん大声で。
何日か前に降った雪が道の脇に固まっているけれど地面や樹がそのまま現れている状態は目に忙しかった。
1ヶ月離れていただけなのに懐かしくて、家までの道のりがぼんやりしていた。
それはこの離れていた1ヶ月のせいだけじゃなくて私にとってこの1年が自分の身のうちに噛み砕けないまま連れて来たものだったからなのかもしれない。
今も、自分がどこにいるのかふと、見回してしまう。
明るいうちに家の周りを歩く。
椿の暗がりからヒヨドリが耐えきれず飛び出して電線に止まる。ただいま、ともう一度言う。帰って来たよってちゅんに伝えてくれる?ヒヨドリは首をぐっと傾けて身体を捻って私を見つめた。このひと、わたしに向かって何かを言ってる。ヒヨドリはとても頭のいい鳥だ。一羽で、もしくはつがいで行動するから状況や相手の行動をよくはかる。表情もとても豊かだ。もちろんことばはわからなくても、わたしが興味を持っていること、なにかを投げかけていることは感じ取る。
たぶんそのヒヨドリも普通の人間とは違う意思を見せる人間が珍しかっただろう。坂をあがるわたしが視界から消えるまでしげしげと見つめていた。

庭の薔薇は元気なままで、ひとつ大きく固くふくらんだ蕾が、ひとつは大きく咲き切って花弁の先が雪でやけたもの、ひとつはすっかり終わって太陽に射抜かれたように色を失って葉によりかかっていた。
パセリは相変わらずしょぼしょぼとしか葉をつけていない。
ローズマリーは大きくなっていた。タイムは相変わらず。ミントも雪でやけたのだろう、枝がち。
高速道路沿いで椿がきれいだったから庭の椿も咲いているだろうと楽しみに帰ったらやはりぽつぽつと開いて、まだまだこれからの蕾も残っていた。

雪国から戻って感じるのは生きものの気配であって、けれど雪国にはそれがないわけではないのだった。
気配の濃さというよりは声の大きさ。息の仕方の差。
雪がすべてをやわらかに否応無く覆うから、謐かに気配を切りつめてうかがっている。

ドイツの冬は長かった。
寒くて暗くて、閉じ込められる部屋の中でひとりのときには本を読みながら心細かった。
雪が少なくなって太陽がぬるんできたある日、いつも通っている凍った林の遠くがうっすらと黄緑色に霞んで見えた。
近い枝を見ると若芽がほんの少しだけ芽吹いているのだった。けれど近くの樹を見てもまだ枝のほうがうんと勝っていて芽の存在などまったく見えない。
それが遠くにいくにつれて、たくさんの枝とそこにある新芽が重なるにつれて、空気だけが萌黄のようにけぶるのだ。
不思議だった。
生命だけがそこにからだをあらわしたようで。
ほんとうに目に見えているものなのか、そういう霞がかかっているのか分からないような春の漂いだった。

白馬の春を見ることはできるんだろうか。
できれば、みてみたい。
この微かな声がほどけるのを。