夜のほとりに

02/26/2013

みんなにバカにされないようになりたい、ってのび太くんが泣いたらドラえもんはじゃあ、って言って布団を用意してすぐにのび太くんを寝かしつけた。夜中に起きて寝ぼけてるジャイアンとかスネ夫の王様になるため。

夜中にどこかに出発するのが好きだ。
真っ暗な中細かい道を車で走るとまるで目の前だけ懐中電灯で照らしてやみくもに進んでいるみたいでくらくらする。
でも安心していい。
踏ん張るのをやめて任せ、次々に飛び込んでくる道の傍を受け入れる。
川や、海が見えてくるのを待ち望む。やがて明るくなる空を。
海が見える時間と一日が明ける時間を合わせてくれているのを知っている。
だからただその全部を見るためにたいらかにあればいい。

毎日夜は明けるのに、いちいちあんなにうつくしいのだから呆然としてしまう。
しんとさみしくなるのはそれが永遠のいとなみの前だからなのだろう。
やわらかなさみしさに満たされた音は、特別なところにすっとおさまる。
ほんとうはそちらの側があるべき場所なのかもしれないけれど普段なかなかそうは在れない、という意味での特別。

自分に寄り添ったつもりで深めてみたり、相応でないとしてもぐっと隣の道まで照らしてみたり、たぶんたくさんの見当違いをおかしながらもこれまできたけれど、これでほんとうにいいんだろうかとふと思うことがある。
なんのために本を読んだりしているんだろう、というのは世界中すべての本を読み尽くせるわけでもなくて今選んだこの本を読んでいるあいだにも読めなくなる本は一冊ずつ増えるのだ。
わたしは「永遠」とたたかおうとしているわけではない、それはそうなんだけど。

父が毎晩ラジオの英会話を聞いていて、でも父はこの先外国に行ったり外国のひとと話す予定は特にないのだった。
その姿を見るとわたしは微笑ましいと同時になんとなく悲しくさびしくなって、だって生きている間に使わないかもしれないのに何のための勉強なの、とかそんなふうに考えると父はもうこれから先そんなに変化に富んだ人生の時間が待っているわけではない、などと決めようとしている自分にもさびしくなって、それはもちろん自分とか、すべての人間に対して及んでくる「生きる時間はあまりにも短くてできることや知ることはほんとうにちいさい」みたいなことが掘り起こされて打ちひしがれてしまう、だけど同時にいとおしい気がするから気持ちがごちゃごちゃとしてしまう。
いとおしいことやうつくしいことはかなしさとかさびしさとあまり分かたれていないから、たくさんのことにすぐ胸がつまってしまって困る。
やっぱりこころのずっと奥には茫洋と永遠が横たわっているせいなのか。

そんな大きくて手にとれないものばかりを相手にしているつもりはないのだけれどな。


写真は湖のほとりで撮ったマイザさん。
夜をくぐりぬけて逢いにいった。