思い返すのがわたしの癖で、やりかたなのだとしたら

02/07/2013

巣から落ちたてのまだ雛だったちゅんと一緒にいたことを思い起こすような日々のなか、アパートメントが1周年を迎えました。
はるえとの往復書簡を読むと1年なんだなあ、という気がするけれどやっぱり1年どころじゃなくて2年くらい前のことのような気がする。このさいしょのはるえのお手紙とわたしの最新の往復書簡とを読み比べると面白い。

自分がぎゅっと鮮やかに燃焼や開花することができるのもすべて「対、ひと」の場面であるなあ、「対」というのがちょっと強すぎるとしたらひとと触れる、ひとと関係するなにか。そんなことを何十年もかかってやっとわたしはわかってきたのだけれど、まだ自分のなかの準備は整っていないような気がして、その下準備みたいにこつこつと本を読んだり景色をみたりピアノを弾いてみたりしている。
ひとりでしょぼしょぼと遊ぶことはほんとに楽しいのだけれどそれが何かしらの変化を経て誰かさんに披露される/お話できる/またはもっと間接的にぱちぱちと変化したなにごとかをもって接する、みたいなことをとどのつまり目的としているようなので、閉じこもって長いこと本を読んでいるとちょっと孤独になってたばこを吸いにいってもやっぱり誰もいないからますますさみしさを噛み締める、ようなことになる。
子犬のワルツは少し指が滑らかに動くようになったけれど、鍵盤を叩く爪の音よりもピアノの音が後に鳴るその時間差に気を取られて、左手と右手がちぐはぐになってしまう。ピアノを弾くひとはこの時差をどうやって埋めているんだろう?それともグランドピアノだからことさらに感じるのかしら。
月光は譜読みが終わらない。

そういえばさみしくて目がすうすうしたので空をみたらとても高いところを鳥が飛んでいた。
いつも雪が降っているときに鳥を見ないのは彼らが雪ぐもの上を飛んでいるからなのか。と腑に落ちたかんじがしたけれどもちろん間違っている。雲よりも高いところをあんなにちいさな鳥が飛んでいるわけはない。

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車で長野から帰ってくるときにさとしくんにGuidoの話をしたら鮮やかにあのころのことを思い出して、Guidoのことをここに書いてみようかなと思い立つ。
2m10cmも背があって、ワーグナーが大好きで、ほんとうにやさしくってパソコンとか携帯音痴で全然連絡がとれないGuido。
絶対ドアを開けてくれて、荷物を持ってくれて、私のまったくひどい英語に何時間も耳を傾けてくれた。日本に帰るね、という連絡をしたら全然とんちんかんな空港で待っていて会えないことを残念がってくれた。

なぜここにいるとドイツにいた時のことを思いだすのかなと考えたら、きっと単純に、この雪のせいだ。
あのときも雪に包まれて、ひとりでいろんなことを考えたり感じたりしたから。
その時にしっかりブログを書いて文章化したと思っていたけれど今読み返すとまったくもってひどい。

たぶん、書きたくなったのは須賀敦子さんの本を読んだからだな。
あんなふうに素敵には書けないけれど、いつか読み返したいから書いておこう。