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03/20/2013

自分が誰かになにかをあげられるということがうまく信じられなくて、わたしはいつまでもこちらがわからひっそり見るという行為から進めない。
誰かがわたしにたくさんくれているということの実感ほどに信じられたらいいのに。
満ちるほど、こわくなる。
満ちると同時に、だ。正確にいえば。
幸せでぱんぱんになると同時にその影も大きくなる。
裏を返せばもらっていることすら、わたしはきちんと信じていないのではなかろうか、と思うこともある。そんなのさみしい。
結局自分、じぶんじゃないか。でもじぶんはまわりも含めてのじぶんで…いや、それも自分本位な幻想です。とか、思考の堂々巡り。
自分が与えられることを不相応なほどに大きく考えているのかもしれない。または、とても一方的なことだと勘違いしているのかもしれない。
たくさん与えてもらえばもらうほどそれに応えられるのかをまず考えてしまうから受け取ることにも臆病になる。
そういうやりとりに関して、わたしはいつまでも成長しない。
ほんとうはそのままじゃいやなのにな、それでも頑なに信じようとしないのは他でもないわたしだ、でもそうじゃなくなれるはずだと知っているから、こころがむずかるのだ。救いはある。はず。

正しさ、のようなものなんて偏ったわたしや誰か個人の幻想であって、でも多様なこころを愛するならそのたくさんの正しさとぶつかって、それでも一緒に生きていくしかない。
わたしのなかにとんでもない不信や醜さがあって同時に整然とした愛情や潔さがあって、一緒に生きてゆくしかないように。どちらも同時に長いことはぐくんできてしまった/はぐくみたかったことがらであるように。

とても誰かとは生きていけないと思っていた。
からっぽなわたしはもらってばかりには耐えられない。自分を耐え難く思うようになる。つまりそんなことまで自分本位な思考のかたまりなのだと気づくとやれやれだけど。
それなら誰にももらわないことを選ぶしかないのではないか、けれどそこまで考えてやっぱり、そんなふうにやりとりをあきらめることこそ耐えられないじゃないの、と思う。
誰かがいなきゃ淋しくて生きてゆけないというのとは違う。それは明らかに違う。
生きる意味の問題。
わたしは誰かが動かされたり、笑ったり、喜んでいるのをみるのがほんとは好きなんだ。そのことこそがわたしをいちばん動かすと知ってる。世界とはわたしにとってのわたしが認識する世界しかさししめすことはないのだけれど、それが揺れて、どんな揺れ方をしたって彷徨ったってさいごにはひかりを掴み取るのを幸せと思うからではないのか。それは隣のひとだってもっと遠くの膨大な世界のことだっておなじこと。
踊っていることもそこから離れることはない。
わたしは誰かをみたいから、誰かが動かされた自分を発見するのがみたいから、自分ができる小さななにかを発しようとしている。
いのちを揺らすことでしかゆらせないなにかなのかもしれない。
ただ、たぶんそこにも臆病ははたらいていることにも気づいてはいる。
情けないことに。

たいせつなひとにあいたい。
たいせつなみんなにあいたい。
会ってもやっぱり臆病は治らないかもしれないけれど。
それでも。