内なるただひとつのこと

04/13/2013

ちいさな頃に住んでいた町に行ったり、
その時にちょうど父さんが整理していたその町の生活のアルバムを見たり、
思わぬひとからメッセージが届いていたり、
いわおくんとイガラシさんともつ鍋をつつきつつ色んな話をしたり、
ゆっくりコーヒーを飲みながら岡井さんと話したり、

自分がうまくどう接していいかわからなかったことがらがちゃんと飛び込んできてその都度丁寧に注いでみることでその時間や場所をちゃんとやり取りしてみるみたいなこと、にたくさん触れた何日間だった。

ばりばりに崩れたように思っていた足元のそのまた下にはやわらかな芽が待ち受けている素地が広がって、それは決して、自分だけで耕してきたものではないのだった。
というのはもし私が無人島に暮らしていたとしても海底は他の大陸に続いているから。
けれど同時に、どんなことを受け取っても、どんな水や光を注がれても、根をどこにどんなかたちで伸ばしたいかということを手さぐりしてきたのは他でもない自分なのだから、わたしは相変わらず瞬間しゅんかんを迷いながら選ぶしかない。
やわらかなこころの時にも、頭でっかちなときにも、卑屈でからだをこわばらせながらも、発見に輝いているときでも、その責任からは逃れられやしない。

自分が踊ったり書いたりするなかで伝えたいことって何かな、と考えた時に、それを厳密に、というか誠実に見つめればみつめるほど個人を離れておおきく広がってしまう。
手の届かないところに、おいそれとはかたちにできないところに及ぶから、なんだかぼんやりと曖昧に霞むような気がする。
だけどたぶん、打ち出したものに弱さや曖昧さが多分に含まれているとしたらそれは私の伝え方の稚拙さにあるのであって(もしくは私自身焦点を掴みきれていない)、その伝えたいこと自体に誤りがあるわけではない、と確信している。
だからなおさらこれはおおごとだ。
わたしのしたいことは、全然簡単なことじゃない。

でもこれはしあわせなこと。