春の終わりに、秋のおわりのはなしとか

05/25/2013

ネットで日記を書くようになったのはもう9年くらい前で、ただ考えのメモだとかその日の些細なできごとが積もってゆくのが楽しかった、それは今でも変わらないけれど、どこの誰とも分からないように書いていたから確かに今とは書くときの矢印の向きや大きさが違っていたなあ、誰かになにかを直接話すようには今も書かないけれどあきらかに。
インターネットで誰かとつながることをはじめたのはそれからしばらくして毎日がちょっと息苦しくなって停滞したような時期で、もがく先にひとがいることにすら元気を使えなくて、でも結局今となってはそこから繋がった先にはたくさんのひとがいる。

まっくんとカエデを撮りにいったのはそんな沼みたいな重さがまだ足に絡みついている時で、わたしはどうしてまっくんの写真をあんなに好きで毎日見ていたのか、長いこと「不思議だけど好きなんだ」としか考えたことがなかった。
でもこの頃少しずつその、どうしてが、纏っていたものを脱ぐようにみえはじめてきた気がする。
まっくんの写真はこうである、とかまっくんとはこうである、というのとはもちろん違くて、わたしがそこに眺めていたものの本質のようなこと。
あの日ずっと一本の道をうろうろしながら撮っているまっくんを見たり、銀杏の先端が曲がっているねと話したり、落ち葉を空に巻き上げている子どもがいたり、わたしはまだIXYのデジカメを使って遠慮がちに写真を撮っていた、それからそこに向かう歩道橋のこともよく憶えている。
駅で、やあ、って出会った瞬間のこととか。

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何かを大事思うようになると、こころが洗われてくたくたに流されて、ちりぢりになる。
そしてそれに結び付けられて、はてなくふくらんでゆけばいいのだけれど。
ばらばらになんかならないよ、と野太いふりをしているといつまでたっても回収することばかり考えてしまうだろう。


なんだか久しぶりになにかを書きたかったのだけれど、ことばをより分けることができないな。
大切なことには、たくさんのことがぞろぞろとくっついてきてしまいそうで。