22:42

06/18/2013

オンタリオ湖の周りの散歩道をずっと歩いた。サングラスをかけていても眉をしかめなければならないくらいの陽射しで、これからくる夏が思いやられる。
知らない鳥が横切り、ここにはひよどりがいないと思う。日本のどこにいってもひよどりはいたからその度にうちの小鳥を思い出しては元気なの?私は元気だよ、と挨拶をしてきたけれどここではちょっとことばの違う鳥にそれを託さなければならない。
鳥は、とても美しいし何より飛ぶことができるからつい出会うと見上げてしまうけれど生々しい生き物だとも思う。肩を怒らせて歩き、的確につつく。目が良すぎるし。

色んな町のことを思い出す。
いったことがある場所だったり映画の中の風景だったり本を読んで頭に繰り広げた道だったり、すでに秋のように高い空や大きなひとりきりの樹や絡まった下草、連なる雑多な店やちゃんと読まないと何屋か判らない看板、おもちゃみたいなブルーベリーマフィンの味、手作りみたいな屋根、すれ違うひとびとから漂ってくるかおり。
いまの一瞬からただ前に進むのではなくてどうしていつも以前のことをつかまえるのだろう。いまの一瞬のこともいつか未来にすくいあげられるのだろうけど、何かをどこかに繋げてはじめて認識するこの方法は、時にはとても遅くて、何度生きても足りないような心地がする。
ときどき。

どこかに根を持ちたいという欲を持ち続けるために、わたしはそれを躱しながら生きていたのかもしれない。
ほんとうの望みに達することではなくて、望みをいつまでも強く望んでおくためにそこを回避する。
何度も反芻することとこのことは関係があって、絶えずそのジレンマのなかに身をおくことを永遠みたいなことに繋げていたのかもしれない。
これじゃあ、実際に生きていけるわけがないよな、と、あらゆる場面でくろぐろとした穴を見つめることになる。

今はことばに飢えている。
そのことで遠いところにいる友達を心配させている。ごめんね。
こんな風に長いながい夕方を、だらだらと外に座って話し続けたい。話すだけで、それは旅みたいだから。遠くに行って、自分をつかまえてくる。
長い夕方といえば気づいたら周りが全部男の人同士のカップルばかりだった、濃いクリームにチョコチップを好きなだけ投げ込めるホットショコラを出してくれたカフェを思い出すな。寒いけどストーブが出てて、いつのまにか灰皿が吸殻でいっぱいになってて、隣の席のひとの耳が美しかったことを覚えてる。

新しいことを見ているのだよ、いま。と言い聞かせる。
いまが終わりで、もう二度と思い返す機会はない。
強く押し寄せることに、高く波立つことに予防線を張っても傍観できるわけじゃない。灯台から見守るわたしは、同時にずぶ濡れで溺れるわたしなのだ。