隙間と余白

10/13/2013


篠原さんのコラム、『画面にも意思が宿る』を読んでふらふらと考えたことのメモ。

最初の展示の時、大小さまざまな写真を30点から40点ほど並べた。古い写真から展示を目がけて撮ったものまで様々、とにかく良いと思ったものを(厳選の末)全部出してしまおう!という展示になった。
ひとつひとつの写真に訴えのようなものは特になかったし、見たことのないような美しい景色やため息の出るような技工もない。わたしという個人が撮るということで選んだものしかそこにはなくて、その中からもういちど選んで壁に貼ることで芽生えることをきっと私は見たいのだろう。見てほしいのだろう。それはなんだ。どうしたら言葉でも踊りでもなく写真ということでやろうとしていることを示せるのか?
そんなことを、ぷすぷすと考えていた。
事前に写真をコピー用紙に出力して床にばらまき、飼っている小鳥に邪魔をされつつ何度も配置を試した。
色の似たもの順にしようかとか、物語のあるものをまとめてみるとか、時期によって固めてみるとか色々試したけれど、ああでもないこうでもないと入れ替えたり差し替えたりしている間に「どう考えてもこいつはこいつの隣だよ」とか「こいつは絶対に目線の高さにあって欲しい」とか「ここに持ってくると重力が狂う」とか「これの周りには沈黙が欲しい」と自然に写真が主張してくるようになった。
ああ、そうなの。ふむ。それはもっとも。と要求を聞いているうちになんとなく全体像ができていった。
(結局、現場に行って写真も壁もほんものになったことで考えていたものと同じにはならなかったのだけれど)

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昔ダンススタジオで踊りのインストラクターをやっていた。
年に1回生徒さんのための発表会があって振付をするのだけれど、持ち時間は年功序列で決まった。ベテランの先生は30分の作品を作っていいけれど、教えをはじめたての私は4分以内のものにしなさい、という指示である。
私はすごくびっくりした。
(もちろん、作品を作る技量がまだそんなにないのだから無理して大作を作りなさんな、という親切心として受け取ることだって可能だ。けれどその持ち時間年功序列制度は先生たちのヒエラルキーを示すために敷かれたとしか思われなかった。)
小学校の読書感想文を思い出した。この本を読んで感想を原稿用紙2枚以内で書きなさい。
私は小学校の読書感想文はどうしても短くできなくて原稿用紙10枚くらい書いていたので、やっぱり4分では収まらなくて叱られた。

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篠原さんのコラムからかけ離れてしまっているけれど、メモだからいいよね。
とどんどんかけ離れることにする。


写真の大きさとそれを見る自分との距離のことを考えた。
インターネットで写真を見ることはできるけれど、インターネットでは写真の大きさを作家が決めることができない。
展示に出かけると作品をどの距離で見るかはある程度自分のからだで決められる。近寄ったり、離れてみたり、しゃがんでみたり、ときにはガラスの反射を手で遮ってみたり。
からだですっぽり、それを判断する。
からだが色んな判断を、まるごとしてしまう。

電子書籍と手にとれる本の違いもそういうところにある。
2段で文字が印刷されているものは開いた途端にうへえ、ってうんざり/嬉しくなるし、その文字や余白の幅が持つ雰囲気は内容の雰囲気に必ず影響してる。
手触りや重みも。


ガラスの反射で思い出したけれど、京都でルドンの「若き日の仏陀」を見た時のことを今でも憶えている。
ふと視線を感じた気がして振り返ったらその絵はあった。
自分の顔が絵を覆っているガラスに反射して、ちょうど仏陀の顔と同じ場所、同じ大きさに重なっていたのだった。
何のことはない。けれど、しばらくその不思議な感覚から動けなかった。
ルドンはとても好きな作家だけれど、あの絵はその中でも特別なものになった。