ここにきて立ち止まることを覚えた

12/10/2014

No.10 2月の末に布を使ったインスタレーションを主とする作品に参加することになった。
パリでダンサーを探しているとのことで友人が繋げてくれたのです。
彼女も、共演するダンサーもBerlinに住んでいるのでやりとりは英語でのメールになる。
アトリエでの最初のリハーサルの様子をビデオで送ってくれた。
肌は布と接触し、ふたつの身体は触れ合い、または躱しあう。コンタクトの感触と、アンコンタクトによって生まれるスペース、被われることと出現、のようなものの対比が美しい作品。
ビデオを見て伝えたいことはたくさんあるのに英語がままならなくてもどかしい。


寒くなってきた。
暖かかった時期にもっともりもり街を歩いておくのだったな。
分厚い服を着てマフラーやらカメラやらを首に巻き付けて、かばんだって持たなきゃいけないし、それで手袋とかして、そんなもこもこのからだで歩くのはいやだ、Tシャツとズボンだけで手ぶらで歩きたい、いつ何かを見つけても駆け寄れるように。登れるように。寝っ転がれるように。でもなかなかそうはいかないんだな。お財布や携帯も持ちたいし、寒いし、写真も撮りたいし。

もう、こちらに来たときみたいには、自分と景色の間にズレがない。
ふわふわとどこでもないところに心が漂うのではなくて、ちゃんと石畳を踏んでる。
地面のその下とおなかを結ぶことができてきた(と思う瞬間が増えた)。

誰もわたしのことを見ていない。
それは日本にいたってそうだったし、そうだったことなど知っていた。
でもどうしても私はたったひとり、ほんとうに誰もいないたったひとりにならないとものごとと対峙することができなかった。
ひとがいると私のこころは、そのひとと自分との関係のことに集中を削がれてしまう。自分の存在の在り方や手を差し伸べる方向がぶれる。
写真を撮ることでそれを思い知った。
近くにひとがいると、写真が撮れない。
ひとを撮るなんてさらにさらに。
私が我を捨てられない限りわたしはほんとうにそれに向き合えないし、ひとがいるところではどうしてもそれができない。

ひとは全然わたしのことを放っておいてくれるのだということが何だかわかってきたのかもしれない。
自分の不得意なことについてはもうようくわかった。
自分が持っている時間やものごとへの感覚と、世界のそれとを比べることもこれまでうんとしてきた。
ぜんぶ混沌のまま、やってみよう。というのが今かもしれないな。

夕焼けがきれいだよ、と友達がメールをくれたので公園まで散歩をしてみる。
家のほとんど隣にパリで2番目に大きな公園があるのだ。
夕焼けはいつも見るくらいに綺麗だった。
でもなんて綺麗なんだろうな。
カメラを空に向けて夢中で撮っていたら、髪がくるくるの女の子とお母さんが私のすぐ横を通りすぎていった。

ああ、わたしは自分が足を止めたい時に足を止めて、眺めることができるようになったんだなあと思った。