ふがいなさと切実さを同時に知ること

01/08/2012


最初に自分で買ったフィルムカメラでここしばらく写真を撮っている。
このカメラは早い。
フィルムの感度も自動で読んでくれるしプログラムモードにしてしまえばほんとうに押すだけ。
からだの向きをそちらに向ける時間すらなくていい。

でも、わざわざそこにおへそを向けて、両手でその画のために調整をして、逃したくないなあと思いながらピントを合わせたりなにやらしてやっと撮る(って実際そんな時間がかかるわけじゃないけど)という作業にも何かいとおしいものがあるなあという気がしている。
自分が何をしているのかよくわからない、という押しっぱなしの写真よりも、あれこれ仕組んだけれど出来上がってうわあ、となる感じはより魔法っぽい。
写真に魔法を求めるわけではないけれど。


とある写真展でポートレートを観て、やはり何かしらちからがあるなあという気がした。
点が3つあれば顔に見える、とか自分と同じような「からだ」がそこにあるだけで何かしらこころを惹かれてしまう…みたいなそんな反応が作用するのかどうかはわからないけれど。
変わりゆく街の写真もよかった。
でもどこでもない水のほとり、煌く木漏れ日、のような写真にはその日はあまり動かされることがなかった。
私が撮る写真も(と、比べるわけではないのですが)どちらかというと名もない場所、特定されない光のようなものが多いから、なんとなくどきんとした。
もちろん私の写真が弱いのは何を撮っているか、ということだけには拠らない。そういう写真で素晴らしいものはたくさんあるもの。
ただほんものの光とか水とか緑のようなものには全然打ち勝つことができないのだな、という漠然とした脱力感のようなものを感じた。
そういうところで撮ろうとしてもだめなのかもしれない。
ひとや建物よりむしろ、そのまま、のようなことは通用しないのかもしれない。
ひとや街の特定の建物の写真に見るべきものがあったのは、それが人間と直接結びついているからだし、写真の側から言えば記録のようなことと繋がってもいるから、なのかもしれない。
私が通常撮りたいなと目を向けるものを今のままただ何とはなしに撮っていたら、もしかしたら遠いお伽話や耳障りのいい音楽みたいにただ素通りされてしまう。


帰り道に夕焼けが美しかった。
でもこれを撮ってどうなるのかな?と手がとまった。
今のこれ以上のものにどうしたってなるわけがないのに。
たとえ写真の不思議さで思わぬ美しさに仕上がったとしてもそれはこの、今のうつくしさとはまったくわけが違う。
このままのことすら、私にはどうしようもないんだ・・

でもそんな思いを抱えつつ、がらんとしたからだのまま、やっぱり撮ってしまった。
そしてそうするしかないんだものなと妙に納得した。

わたしがひとりきりで見たことを、やっぱりどんなふうなかたちでもおさめて、それをもう一度わたしのなかから出してみたい。
違うことばにしかならないのは分かってる。
でも口にして、それを誰かが聞いてくれるのを見たい。
たったそれだけのことなんだ。

だから、わたしはひとりきりの時にしかほんとうには写真が撮れないのかもしれない。

今年の最初の日に明ける海を見ながら考えたことと同じ。