櫻井紀子さんの「海月」をみました@SIGHT BOX GALLERY

03/05/2012

右の道端にはまだ溶け残った雪がちいさな山になっていて、左耳は側溝の水音を聞いていた。
いっぽうはいつまでも留められていていっぽうはどこか遠いところへ移動していってしまう、それを目と耳で同時に出会ったのでからだが半分ずつ、脳の感覚分布図によって歪められるようだった。

昨夜からずっと同じ分量の雨が降り続いている。
雨も太陽とおなじで等しいのであの雪も溶けてしまうのだろう。

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昨日sight box galleryでのりちゃんの展示を見た。
からだとは儚く、色濃いものだなと思う。
海は永遠に岸にもどってはちりぢりに別れてとおい月に照らされる、いっぽうからだは重たくてなかなかどこにだってゆくことはできない、それなのにあっというまに掻き消えてしまう。
海と月はたくさんのからだが行き交うのを見てる。からだは繰り返し、消える。そしてひとつとして同じものはなくて。
そんなからだを持つ自分だから、からだの持ついのちの短さのことを考えると胸が痛くなる、そして同時にその時間の分量だけの永遠のことをあたためられる。
このからだがなくなったらもう話すことはできない、という切実さをしまいこんでいるのはきっと全てのひとが同じ。

のりちゃんの写真をみながら同時にふたつの時間のことを考えた。
いのちがこの地球に生まれた瞬間から今を通過してこの先もずっと続く永いながい広い時間と、もうすぐ消えちゃう火なんだけど躍り上がっているまさに今の瞬間と。
それが同時にこのなかにあって、音もふたつがせめぎ合って、はじけて、吸い込まれるように消える。

 
のりちゃんがブログで書いてた期間限定のスナップのアルバムも見られてよかった。
フィルムの色が面白いなあ、とかそういうふうなことを思ってにこにこしながら、のりちゃんの見ているものをもっと見たいなあ、なんだか知りたい。という風に考えました。

のりちゃんの記事を読んで私が今なんだかひとを撮りたくなっている状態のことを勝手に重ねあわせている。
そんなはずじゃなかったのにするするとやわらかい場所からどんどん伸びて出て行ってしまって困るよって言いたいけど嫌じゃない、あんなに簡単にひとを撮れるものなのか、となかば呆れながら(いや、呆れているその先はきっと自分のかたくなさに、だ)私もつられてカメラを向けてしまう。
出来上がった写真がもうほんとうに下手くそで、へたくそなうえにちっともいい写真でもなくてがっかりする(ことは前にも書いた)し、撮らせてくれた友だちに申し訳ない気持ちでしょぼんとするんだけど、こうしてひとを撮ってみたいなあ、画面にひとがいてもいい、となれたことは大きな変化だ。
それはたぶん写真だけのことじゃないのでちょっとおなかの底があたたかい。

 
櫻井紀子さんの写真展、ほんとうにたくさんの方に見てほしいなと思います。
今週いっぱいだからお早めにsight box galleryへ。
ぜひ!!!!

(のりちゃんのDMの写真はサイトボックスのHPからお借りしました)