えみちゃんの展示を見て

04/10/2012

えみちゃんの展示を見にいった(20日まで、桜美林大学写真部部室にて)。
えみちゃんは桜美林大学で写真部に入っていて、この間の展示に来てくれて友だちになりました。

えみちゃんのブックを見て自分の写真を見返したくなった。すごく素直にもう一度見て、ひとつずつその時のことを思うことを。
考えたらカメラを向けた瞬間にはそれなりの理由があって、それが頭を通過した理由であろうとよくわかんないけどさっとおへそが向いた理由であろうとわたしにとっては何がしか特別なものだったわけなのだけれど、このごろのわたしは出来上がった写真をへたくそかピントが合っているかというだけで分類してほんとうにそこにかえってみるようなことを全然していなかった。
もちろんこう書いている今でも、撮り終わった写真全てにそういう作業をすることはできないとは感じていて(それは時間の問題と言うより興味の問題かもしれない)、けれど写真を見返した時にときどきわきあがってくる「なんでこの写真が気になるのだろう?」みたいな重力の揺れのようなことを誤魔化すことなくちゃんと掴まえよう、と思う。
今年に入ってから特にわたしの周りにはひとを素敵に撮るひとがいっぱいいて、もともとひとを撮ることが苦手だと感じていたそのこころがへなへなと折れていたのだけれど、でもやっぱり撮りたくて撮ってもどうしても撮りたい!と感じたなにかの3割も捉えられなくて、やっぱりじっと手をみてしまう。し、もうこれまでの人生とかひととの接し方のようなことをまるごと思い返したりして手酷くやすりをかけられるような心地になったりする。
わたしは何か、ひとからかすめとろうとしているんじゃないかな、そんな気がする。
自分だけが見つめて、瞳を覗かれる前にさっと目をそらすようなことをずっとやってきたのかもしれない、だからほんとに見つめてることにもならない。
そこには人見知り、とか自意識過剰、とか思いやりがない、みたいないくつかの理由があげられるけれど辺が増えればふえるほど丸くなってゆくようにそれぞれの区別がもうなくて壁は固く閉じてしまっている。

理由はそれぞれが逆の理由を持って、打ち消しあう。だからもう理由のことはどうでもいい。
写真をうまく撮ったりうまく撮れなかったり、へただけど見てもらったりやっぱり見せることが許せないものはちゃんとラインを引いておく、誰がなんと言おうと好き、でもそのなんとか言われたこともまた考える。
だいじなのはその時(それが瞬間にせよちょっと意識的に時間をとれるにせよ)なにを選んでみるか、どこから引き出したOKなのか、ということかもしれないからその都度、今日えみちゃんのブックを見たときに感じたことにかえってみよう、という気持ちになったのでした。

 
それからふじくんの撮ったえみちゃんは、わたしがえみちゃんの芯に感じていることに非常に近い感覚がそこにあるような気がして、しみじみと見つめてしまった。
ああ、知ってるんだなー、と、でも当たり前だよね。
そんな友だちがいることが羨ましくなったりした。

なんか泣きたいみたいな、あったかい。ぽんと、小さな手で押されたみたい。

えみちゃんありがとう。